月を見ていた。
満月に近い月だった。
マオは本屋に寄るために津田沼駅に降りたところだった。
あまりにもうつくしすぎて少し常軌を逸したようなその月は、天空にいつもよりも存在感を増して黄金がかった光を放っていた。
つい、そこが雑踏であることを忘れて足を止めて見上げてしまった。
急に立ち止まったので後ろの人がぶつかりそうになった。上の空であやまりながら目は月から離すことができなかった。
月は周囲の雲を照らしてドラマティックにその空間に奥行きをつくっている。
少し胸騒ぎがしてそこから動けなかった。
こんな月の晩は、何があっても信じられる気がした。
そして、それは来た。
初めは鳥だと思った。
ちょうど月を背にして来るので気づかない人の方が多かった。マオが突っ立ってある一点を凝視しているのに気づいて、そっちを見る人がちらほら出始めた。
近づいて来るそれは思いのほか大きい。金色の巻き毛が垂れている。
翼はゆうに左右で2mくらいに見えた。
雑踏の動きがにぶくなり、立ち止まる人が増え始めた。
ざわめきが起こる。
マオはその中心で言葉を失っていた。
それはまっすぐとこちらに向かってくる。
期待のようなものとおそれとで凍りついたようにマオはそこから動けなかった。
「なんだあれ!」
「天使じゃないか?」
「なに?」
「うそー!」
次々に声があがる。
もう、他にそれを呼ぶ言葉はなかった。
”天使”はマオの真ん前に羽ばたいてりんかくを光らせながら降り立った。絵に描いたような金色の巻き毛で鳶色の瞳のうつくしい女性だ。あごはきゃしゃでほおとくちびるがほんのりと紅い。まっすぐにマオを見ている。
「キャー!!」
群集からまるでアイドルに出会ったように声があがった。
それには無頓着に天使はマオの手をひっぱると舞い上がった。
「えっ!?」
みるみるうちに高く浮かぶとあっという間に人々の声は遠くなっていった。羽根もないのに天使に手をつかまれているとマオまで飛んでいる。
起こっていることをまるで確かめるようにマオは胸に抱き締めたバッグをつかむ手に力を込めた。
風がきつくて息が苦しい。
咳き込むと、天使は気がついたように飛ぶ速度をゆるめた。
そうして徐々に灯りの少ない空間へと高度を下げていった。
降りていったのは緑の多い場所だ。
覚えのある香りがする。バラの香り。
それはマオの自宅にほど近いバラ園だ。通い慣れた散歩コース。まさか空から、しかも天使と降り立つなんて夢にも思ってもいなかった。閉園後で人気はない。
ちょうどバラの季節。きのうも来たばかり。
でも夜の閉園後なんて入ったことはない。向き合った天使は見とれるような微笑みを浮かべたかと思うと、バラの香りを胸いっぱいに吸い込んでくるくるとそこで舞い始めた。マオはうっとりとそれを眺める。
天使はバレエを踊るようにかろやかにうれしそうに舞うともう一度マオのそばに来て笑った。
「マオ、見つけた。」
「え?」
「ずっと上の方から見えた。わたしを見たでしょ。」
マオはかぶりを振った。
「見てない。見えるわけない。」
「見たのよあなたのここが。」
そういって天使はマオの胸を指す。
「フラウ」
そういって彼女はバレエ風におじぎをした。
「名前?」
「そう。」
「見られると?姿を現すの?」
フラウは首をかしげていたずらっぽく笑っている。
「なにしに来たの?」
「好きなの。」
「なにが?」
「マオみたいのが。」
「きいたことない。」
「なにが?」
「天使が駅に降り立つなんて。」
「そう?」
「見られていいの?」
「まずかった?」
「まずいわよ。大騒ぎよ。」
「そうなの?」
マオはちょっと可笑しくなった。
この天使は世間知らずなんだろうか。
「フツウ人前にあんなに派手に現れないもんだと思うけど。」
「わかった。今度からそうする。」
そういってフラウは無邪気に笑った。
「なんでわたし?」
「天使好きするたましいを持ってる。」
「それってどんな?」
「ひとつ。空が好きでよく空ばかり見てる。そうすると目が合っちゃう。」
「へえ?」
「ひとつ。バラが好きでバラが咲くと必ずバラに引き寄せられる。」
「バラ?」
「バラって天界のものなの。知ってた?」
「ううん。」
「ひとつ。ひとの悪口がいえない。」
「うーん・・・。」
「けんそんすることないわ。ばれてるわ。まだききたい?」
「いえ。それよりあなたのこときかせて。どこから来たの?ほんものの天使?」
「天使っていうのは天から来るものよ。羽根、さわってみる?」
「いいの?」
「ほら。」
そういってフラウはくるりと後ろを向いた。
ふさふさした羽毛でしっかりした手応えがあった。フラウは面白そうに羽根をひらいてみせた。
「重くないの?」
「マオは自分の手が重いなんて思う?」
「ううん。」
フラウは楽し気に笑うと少し羽ばたいて地上10cmくらいを浮遊しながら移動し始めた。
なんとなくそれについていく。
「家まで行くわ。」
「えっ!!それはやめてよ!家族が卒倒する!」
「見えなければいいでしょ?」
「え?」
そういうとフラウはすうっと薄く霧のようになって消えていった。
「フラウ?」
あわててマオは呼んだ。
「いる。ここ。わかる?」
そういってマオの手をにぎる。
「そんなことできるんだ。」
「いくらでも。自由だわ。わたしがそばにいると見えなくてもわかるわよ。」
「うん。」
たしかに目には見えないが白熱灯がともっているようなあたたかみと、うっすらとバラのようなよい香りとを感じた。
「いこ。」
マオは不思議な胸のぬくもりを覚えていた。まるで友達を家に連れて帰るようだ。会ったばかりなのに。しかも天使なのに。
「ただいま。」
家に帰ると弟のユウが興奮した様子でマオに叫んだ。
「ねえちゃん!津田沼に天使が出たってよ!高校生をさらっていったって。」
内心ギクッとしながら、とぼけた。
「へーなにそれ。なに言ってんの?」
「ニュースでやってるよ。見てみなよ。」
父も母も食卓を囲んでテレビをつけて見入っていた。マオもちょっとドキドキしながらテレビのそばに寄っていった。
「・・模様です。目撃者は多数で連れ去られた少女の身元は不明です。髪は肩までありGパンにグレーのカーディガン。お心当たりの方は最寄りの警察まで・・。」
「ああ、お帰り。」
母が振り返って言った。
「なにこれ?」
「天使が出て人をさらったとか。エイプリルフールじゃあるまいし。お風呂わいてるわよ。」
「はーい。」
そういってマオは自分の部屋に引き上げた。
「くっくっくっく。」
フラウもいっしょになって笑うのを感じた。
「ひとさらいになってるよ。」
「ほんと。姿は見せないほうがいいんだ。」
「あったりまえじゃん。まったく。明日髪、切りにいこ。」
「なんで?」
「変装。」
To be continued…