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空を歩く

大和・みたまの水脈をたどる旅*2

 16:00に法隆寺駅に着いた。そこから歩いて法隆寺は20分。夢殿はさらにその一番右の奥の方だ。そこに今日の宿、大黒屋がある。昔から文人墨客が泊まったことで有名で、その窓からは夢殿の屋根が見えるということだった。思ったより距離があるその道を荷物を抱えてたどる。
 
 夢殿が見えてきた。行列まではいかないがやはりGWらしく人影が見える。ひとまず荷物を置きたくて、まっすぐ宿へ向かった。現在の夢殿の入り口は小さな門だけれど、塀を廻り込むと立派な正門のような開かずの門があり、その前はフェンスに囲まれて誰も入れない野原になっていた。そしてその正門の前にその宿はあった。
 昔の風情はなくなっているが、立地としてはやはり申し分ない宿だった。そしてそれは部屋に案内されてさらに思い知る。
 魂消た!その二階の部屋からはフェンスが見えないのでまるで夢殿の敷地の中に建っているような錯覚を覚える。これ以上ない景色が窓の外にひろがっている。カンドウこの上ない。
 宿に着いてこれほどの感動を覚えたことはかつてあったろうか。宿が古い民宿風であろうが、お風呂が狭かろうが、そんなことはどうでもよい。法隆寺に来るならここに泊まるしかない。
 
 荷物をほどいて夕刻の散歩に出た。夢殿は閉まってしまったが、周辺の町並みはこころの触毛を心地よくなぜる5月の風のようだった。夢殿から法隆寺に続く広々とした参道のような道は、まっさらな生成りの麻のような清潔感があって、電線のない空は正月のようにおだやかで底抜けにひろく明るかった。こういう空は時空を超えてしまう。今と未来といにしえがよりあわされていっぺんにここに出現する。しみてくるそのひろやかな空気を気のからだいっぱいに深呼吸した。
 それにしてもなによりも法隆寺の宝珠(こころ)である救世観音のおひざ元に一夜を過ごせるなんて、夢のようだ。翌日拝観して気がついたのだが、Kさんとゆっくりと語り合っていたその晩、救世観音はこちら側を向いてあらせられたのだった。そのことはそれだけでこころに何かが落ちる。

 朝になって、寝床で「おはよう。」を交わしてそれでもまどろんでいると、夢殿の方から一頭のいのししが歩いてくる印象がした。それは大きすぎず小さすぎず、背中には一列黒い毛が生えていて全体は茶色で横腹に白い斑点がある。いのししなのにあまり野性的な感じは受けなかった。ゆっくりと大きく蛇行しながらこっちへ向かってくる。真近まで来たように想った時目が覚めた。
 
 朝食をいただいて、8時からの開門に間に合うよう宿を出る。まだ人は他にひと組くらいだった。ちょうど門前に着いた時にきいいとその門は開かれた。一番に入ったのはわたしたちだった。
 券をもらうのももどかしく、足早に救世観音の扉へと向かう。恋い焦がれたお方にやっとお会いするような何年来の夢の実現。
 救世観音は想った通り深々と、繊細にリアルにしっとりとそこにおわす。これは、観音像ということを超えている。その名前を忘れてしまうような圧倒的なただただ深い存在感のもの、としかいいようがない。
 今想うと、そこには底知れぬ果てのない洞くつがひらけていたようでもある。洞くつといっても暗くも狭くもない。むしろ無限にひろい宇宙のようなものだ。観音像すら消えてしまっているような。一度拝観して夢殿を降り、屋根に輝くうつくしい宝珠を眺めてその場の空気を呼吸した。そして人がいなくなった夢殿にもう一度昇り、また救世観音に向き合った。
 その時覚えた感情というのは自分でも少し意外なものだった。救世観音像が、聖徳太子そのものにリアルに感じられ、そしてそれに相対する自分は兄を慕う弟の感情になっていたのだ。そういう感情になることは予想だにしていなかった。来米皇子の影響だろうか。
 来てよかったな。ほんとうによかったな、としんから想った。

 宿を引き払うと今度はJRで桜井に向かった。そこからレンタカーを借りて御所(ごせ)の日本武尊陵に寄りつつ、天河に向かう。
 たいへん分かりやすい道ですいすいと走る。GWなのに人があまり行かないところばかりすきまをぬって訪れているのであまり渋滞知らず。と思ったら日本武尊陵のごく近くで珍しく少々車が詰まった。
 前方には日本武尊陵が背にしている国見山がもう見えている。名前がいい。このあたりの景色も、なんだかここに眠るならそれはいいかもしれないと思わせるような穏やかな緑あふれる光景だった。
 
 日本武尊陵は小さな看板が出ていたがその入り口が分からなかった。ぐるりと一度坂を下りると遠くに看板を見つけてそこまで行ってそこに車を止めた。確かに「日本武尊御陵→」とかいてある。
 そこからあぜ道のような小花咲き乱れる小道をゆくと、そこで道は消えてしまった。Kさんがめざとく向こうに石の柵のようなものを見つける。そこへ行く道、というのはない。けもの道のようなところを草を踏み分け進むことになった。相変わらず蜘蛛にへっぴり腰になるワタシ。クモの巣を払うKさんが10人力の四天王のように見えた。
 
 たどりついてみると、整備された道はどうも反対側に入り口があったようで、わたしたちが車を止めた看板を一瞬うらむ。だがそれもすぐ忘れて第3番目の日本武尊陵にやって来たことに感慨を覚えた。
 三重県の能褒野陵は2000年の伊勢行の帰りにすでに寄っていた。その後、御陵は3つあることが分かったが、その全てにこんなに早く来れるとは思っていなかったのだ。
 能褒野で亡くなった日本武尊は八尋白智鳥(両手をひろげた状態が一尋)となって大和のここ琴引原(現在の御所市大字富田)の地に舞い降りる。そこに御陵をまたひとつ作り、そこから飛び立って最後に舞い降りた河内の古市にさらにあの巨大な御陵を作ったということになっている。そして古市から日本武尊は何処と知れず天翔けて天へと昇っていった。
 しかし、ここは来米皇子陵とはまた違うけれどももの寂しいもののある御陵だった。古市と違って忘れられている乾きを覚えた。いつもは水だけを手向けるのだが、あまりにも気の毒になって持っていた菓子も供え、そして奉納舞を納めた。
 
 史実というのはこの際あまり気にしない。大事なのはここが日本武尊の御陵であると定められて、皆の意識の中にそう生きていることで、そうなるとそこにそのエネルギーはよらせられるという事実があるからだ。
 日本武尊が実際にひとりの人間として肉体を持って生きていたかどうか、ということも実はどちらでもいいといえばいい。その意志やこころのようなものはたとえ誰かが思いついて作ったと言われてもそこにたしかな霊体がなければこれほどに今にいたるまで伝わりつづけることはないと思うからだ。
 肉体を持たずに存在している存在の方がジツはあまたあるワケで、それは肉体を持って生きる人々に大きな影響をおよぼしていたりする。彼の尊がこれだけ生き生きと日本人を引きつけ、今も大事にされているのは、尊の精神のエキス(霊体)とでもいうものが実際になければかなわない仕業だと思えるのだ。
 
 わたしには日本武尊は、日本人が日本に目をむけるために現れた『日本の意志』だとも思える。だから日本という名がついている。日本っていう大きな霊体(もしくはもっと大きな霊体)が関与しているかもしれない。ちっぽけなひとりの人間が思いつくものには様々なそういうものが関わっているのだと思う。
 日本武尊はものすごく広範囲に日本各地に足跡を残している。それを地図の上で目で追うだけでおのずと日本というのを意識させられる。
 そして大事なのは、日本人が大事な役割を果たすための大きな教訓を残していることだ。
 なぜなら、日本というのは想像以上にこれからの世界にとってのキーなのかもしれないからだ。
 そういう予感はトリハダをたたせる。
 倭姫が日本武尊に忠告したとされる言葉「慎め莫怠りそ(慎んでゆめゆめ怠るな)」
 それはそのまますべての日本人、もしくは地球人にむけた言葉でもある。
 
 日本武尊は思い上がったばっかりに海の神を怒らせていとしい弟橘姫命を失い、そしてやはり思い上がったばかりに山の神を怒らせて自分もいのちを落としてしまった。
 思い上がることは失うものは大きく、事を為せない。
 彼はこの大事なことを伝えるために古事記、日本書紀に現れた。
 それは大いなるところからの意志でなくてなんなのだろう。

 わたしはずっと日本武尊を気にしてきて、途中から聖徳太子もものすごく気になってきた。
 ある時、それが日本というもののある2本の柱であると感じたことがある。
  『和』と『武』
 それぞれが日本のそのパートを象徴していて、そのどちらも欠けてはいけないような。両輪。
 人には二面性があるように、穏やかで思慮深い面とパワフルで猛々しい面と。でも、それでもずっとふたりを別々にとらえてきた。しかし今回、何かがわたしの深くに響いた。『兄弟』というキーワード。
 たましいの役割でとらえるなら、そうであってもいいのかもしれない。

To be continued・・・
by ben-chicchan | 2005-02-27 23:51 | 紀行文
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