空を歩く

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《いにしえとみらいがよみがえる》熊野&高野山-3-

 翌日、高野山まではどんどん山を上っていく。
 トイレ休憩をとる護摩壇山というところは高野龍神スカイラインの展望のいいところらしかったが、あいにく途中から雨になってきて何も見えない。肌寒い。
 ついに雨具の本格的出番かしらんと思いつつ、バスは紀州の雨けむりの山をゆく。
 
 護摩壇山から少し標高を下って目指す高野山に着いたのは11時頃だったろうか?
 雨はあがっていた。
 思っていたより開けた門前町。
 左右はそうそうたる立派なお寺だらけという一大宗教町。標高は900mはあるはずだが、門前の町並みは想像よりも現世のにおいがふんぷんとしていて観光的な外観だった。別の感心をする。人が集まるのってスゴイ。
 まずはちょっと早いが数珠屋四郎兵衛というお店で精進釜飯セットの昼食。
 これが社員食堂のような昼食会場とはうらはらにウマイこと!もう少しおなかがこなれていたらしっかと全部食べたかったがまだおなかが減っていなかった。勿体無い。
 しかし、しかし、ここで食べた高野山のごま豆腐は目からウロコのおいしさで、思わずお土産に買ってしまいましたとさ。絹ごしのような白い肌のむっちりしっとり。夢の味。これを食べてしまっては他のがごま豆腐に思えなくなってしまう。困ったな。遠いのに。
 
 そしていよいよ高野山の入り口にあたる大門へ。
 観光用の駐車場からは遠いので、今は人がここをくぐって高野山の聖域に入ることは減ってしまったかもしれないが、わたしはやはりくぐってみて門というものの果たす役割というものをあらためて感じた。
 門はやはりそこに内と外を分け、区切る役目がある。
 大門をくぐってじんわりと感じたのはほのかにかるくなるからだと足のつけねのリンパのあたりにじょじょに満ちてくるあたたかみだった。
 神社・仏閣、仏像など波動の高いものにふれるとだいたい丹田(下腹)から下に反応があることが自分で分かって来たが、それだった。そしてそれが、たたずんでいるとひそかに全身にじわあっとしみわたってきてさらにかるくなり、考える回路が閉じ、逆にみけんが張って来てからだが“ひらいてくる”ためにふうわりとふくらむようななにかちょっと“違う”感覚に浸される。
 バスで壇上伽藍に行くためにもう一度門の外へ出ると、今度は逆に水からあがったようにからだがほのかに重くなってきて肉体感覚がもどってくるのだった。
 いわゆる俗世というものと聖域との違いが顕著に感じられるのはこの門という“結界”のおかげだ。こういうものにそういう次元での本当の意味があることを肉体感覚で実際に味わい近付くことになるとは、2000年あたりまでは考えられなかったことだ。
 以前はそんなことがなかったわたしのような人までこうなってくるということが、けっこう増えてきているようなのは、変わりゆく時代の旬の現象なのかもしれない。

 壇上伽藍はまずここの守り神を祀る御社(みやしろ)へ。
 空海さんをここに導いた狩り場明神や、丹生都比売命らを祀る。
 はじめからなかなかに存在感のあるお社。
 拝んでいると崖の上にお堂のようなものが建っていて、そのそばの地面が強烈に光り輝いているというイメージが浮かんだ。
 その他今は忘れてしまったがなにかきれいなイメージが行き過ぎた。
 気になってお社を見上げた。階段を上ると近づくにつれ閉まっている格子の扉の向こうから漏れ出ている“なにか”の密度がほんのり濃くなってくるようだった。ほんのささやかなひそやかなものだがそれはこういうところで時々感じることがある少しなじみのある感触だった。
 うっかりすると感じられないような少し違う意識レベルでの。

 その先に白っぽい大きな宝塔があった。西塔だった。
 近づくにつれてそれは並み大抵ではない様相を呈していた。
 「どないしょー!」と思わず口走るほどの迫力。
 近づくことにこんなに興奮を覚えた塔は初めてだ。彩色が元々ほどこされていないのか歳月で落ちたのか、年季は入っているが、しかしあかるい白木の木材の色彩がなんとも品のいいうつくしさをはなっている。
 木立の中に人工的に作られたものとしては最大級にしっくりとなじんでいた。時をまとい。
 そして目にして近づくにつれアタマに響く印象。これってまるで“宇宙船!!(?)”丸いふくらみをもった造形のせいか、その大きさか、なぜ宝塔がそう感じられるのかうまい理屈はつかないが、その第一印象が頭蓋骨の内側に(ウチュウセン、ウチュウセン、ウチュウセン・・。)と響いていた。
 高野山の中では一番気に入った建造物だ。
 そして右手を振仰げば平成8年に塗り替えられたばかりの昭和12年再建の大塔。こちらは壇上伽藍の力(リキ)がこめられていて立派なハズなのだが、しかし西塔の存在感にはとうていかないそうになかった。

 その手前に御影堂といって空海さんの御影を祀ったお堂がある。
 元は空海さんの持仏堂。大塔のあっけらかんとテッコンキンクリートな背景を背負って対照的にそこは深々としんとしていた。
 お参りする。
「南無大師遍照金剛。」お大師さまに呼び掛ける。
 じんわりとしっくりと拝めていると、なんとなく左後ろに気配のようなものを覚えた。
 (それってお大師さま?)とふと想うとだんだんにほんとにそう思えてくる。
 お大師さまならどのようにそこにおられるかな、と想うと、にこにこしているわけではないが深ーい静かな面持ちで全て分かっておられて見守っておいでになるように感じられた。
『同行二人』というのはこういうことなのかな?とちょっと思った。それからここ高野山が空海さんゆかりの地であるということが急速に身近に感じられてくる。
 そこを離れて歩き出しても別の人々の集団を見ても、そうか、空海さんに意識をむけたとたん『同行二人』なのだと自然に感じられた。
 それは自分たちだけではなくここへくるみなさんそうで、それぞれに空海さんが寄り添っておられる。だから同時に百も千も存在している。あっちの人の後ろを行き、こっちの人の後ろにもいる。そんなイメージがごくごく自然に感じられた。

 大塔に入る時、ちょうど鐘が突かれた。後ろ向きにぶらさがるように全体重を撞木に預けるように突く。鐘の音をちょっと味わってから、中に入って御本尊の前に座った。
 ここで般若心経を唱える。
 このお経大好きだ。
 真言はモチロンだが、『不垢不浄』というところが仏教のデカさを感じさせる。
 神道には邪気を祓うということがあり、邪気というものの存在を大きくとらえている。しかし仏教はそれを越えた世界を呈示している。
 どちらもほんとだと思う。般若心経は尊い詩のような珠玉の大傑作だ。
 
 次は金剛峯寺。けっこう時間がおしてきたので、そオれエ〜という具合にそそくさと突進し、お茶とお茶菓子をかっといただいてぐるっと台所を廻って出口に出た。
 それでも要所要所ではきちんと眺めた。
 面白かったのは台所で、昔ながらで人肌が感じられ、清潔感があってダイナミックでわくわくした。変わった切り絵のようなお札をかまどの神様のところに貼ってあるのも興味深い。

 最後にバスで奥の院に向かう。いよいよ高野山のクライマックス。並みいる歴代の歴史上の人物達のお墓に参りつつ、空海さんの御廟へ!
 バスは表参道入り口の一の橋にわたしたちを降ろした。
 杉の大木が連なる苔むした平らな参道。道すがら紀州なんとか藩のなになに家というように有名なお家のお墓を見つけてはていねいに参っていった。
 やがてしばらく行くと右手に武田信玄親子のお墓があった。そこに立ってみると少しふらアとするような空間を感じた。いったい死ぬってナニ?まるで生きているようじゃないか!
 奈良の崇神天皇陵もものスゴカッタけれど、こうして死してなお、いやさらに?エネルギーに満ち満ちているというのはいったい人ってなんなんだろう?と想わざるを得ない。
 この存在感・・。
 
 さらに奥には明智光秀のお墓があって、なんだかにぎやかに参拝する集団にとりまかれていた。まるで不思議なようなくらい明るく楽しそうにお墓の手入れをしている。そこを参道から遥拝しながら、わたしは不思議な感覚にとらわれてきた。
 はじめは「やすらかにお眠りください。ありがとうございました。」
 と心の内でつぶやいていたが、途中から
「おつとめありがとうございました。やすらかにお眠りください。今もありがとうございます。」に変わってきた。そして明智光秀にもそのように拝んだ時、気がついたのだ。
 戦いすんで日も暮れて勝者も敗者もないのだった。みなここにこうして静かに眠ることになる。そしてどんな人もその背負ったつとめを果たしたのだ。
 本人の自覚にかかわらず。ここに並ぶ墓標群はその証し。
 歴史の中で悪役を演ずる運命を担ってなにをどう行なったとしても、それは大きな歴史といういきものの内臓のひとつ。細胞のひとつ。どれが欠けてもそのダイナミックな歴史という息吹きは成立しない。
 勝った負けたと一喜一憂する人の性(さが)はなんとかわいらしい小さなあがきであることか。愛らしくさえある。人の悪を責め立てることの照れくささ、恥ずかしさはだからある。
 だれしもがそのおつとめを果たすためにこの世を生きている。間違っているように見えようと、なにもしていないように見えようと、死んでしまえば
「おつとめありがとうございました。」なのだ。ひとりの例外もなく。
 たとえばお釈迦さまは死んだ者や病人を見て出家を決意された。だとしたらその死んだ者や病人はお釈迦さまを救った救世主。どころか、お釈迦さまを通じて何万、何億の人を救うことになる。意味のないひとなどひとりもいない。
 そのようにあらゆる人々のはたらきのどれもがなければ今のわたしはここにない。
 日本を動かした人々のまるで展示場のような霊場を歩いてみて、わたしの、つまり日本の霊的背景というものも感じさせられたような気がした。
 考えてみれば敵も味方もなんもかんもごっちゃにこうしてお墓(供養塔もあるらしいが)を集めているというのも途方もない。
 空海さんの、仏教の、そして日本という風土のふところの深さかなア。
 お墓というのはなんとなくわけもなくは歩きたくないところだが、ここは空海さんや空海さんを慕う人々が守っているせいか、他の人と一緒に歩いたせいか、安心して歩けた。
 歩くうちにだんだんに深くこころをこめて、感謝をこめて参るようになってきた。日本の生きた屋台骨がいまもいきいきとここに存する。
 霊界のビバリーヒルズ。高級分譲地(?)。

 愛媛松山の松平家に来た。わたしが生まれたところ。
 感謝をこめて拝む。
 浄土宗の宗祖法然上人のお墓。今、自身も仏縁を感じているが、そういえば祖母も「南無阿弥陀仏」だった。参拝する。
 大河ドラマでおなじみの面々のお墓ももちろんあった。
 秀吉は本人ではなく親族のものらしかったが、高くなったところに立派にあった。
 信長は驚くような質素なお墓で、
 派手派手しい歌舞伎ものの生涯とはうらはらで印象的だった。
「おつとめありがとうございました。」

 長い参道をようやく終点に近づいてくる。
 せせらぎにかかる橋を渡る頃には、横の参道からの人々が合流してきた。
 正面に見えてきたのがこの霊山の主人(あるじ)空海さんの御廟だ。
 御廟の手前の拝堂まできて、線香に火を焚いた。そこにそうしている間にも拝堂のほうからどうにも強い気が発散してくるのにあてられる感じでいた。
 密教らしい暗がりの濃いい空間。そこでまず一礼してごあいさつし、
 ついにその裏側の御廟へと廻る。
 なにしろキツイくらいのつよいエネルギー。
 御廟の入り口の前までくるともう言葉も心構えもなにもぶっとんでしまった。
(南無・・南無・・うううなんだっけ?思い出せない・・・。)
<↑南無大師金剛遍照と唱えようとしている>
 大師という文字は映像として脳裏に浮かんでいるのだが、それが何を意味するのかが理解出来ない。超 ド級急性アルツハイマー状態。そんな、アタマでなにかを語ることなどまるで許さないかのような強烈なエネルギーの放射を浴びていた。
 まるでお大師さんのごうごうたるエネルギーの柱のなかにただただおらしていただいているというようなたよりない有り様につきていた。
 
 厳しさ、強さ、大きさ。
 
 想像を絶するその偉大さだった。
 けしつぶのようなしょうじょう蝿のようなわたしのようなものがなんのかんのと口にすること、考えることを厳として吹き飛ばすといったような圧倒的な存在感だった。もちろん全てお見通し。そのうえでの父性愛。
 ようやくその前からはずれて回廊の角までくると、みけんのあたりからなにかが“ろう”のようにつうっと内側をほそく落ちるのを感じた。
 御廟から離れれば離れるほど、ほっ・・とこのちっぽけな自分に帰還してくるのをじんわりと感じていた。
 今想ってもあの金属的な巨大なエネルギーには言葉もない。
 縁あって話した人が、お大師さんだけじゃなくてお大師さんを慕う人の想いも大きいんじゃないですか?と言ってくれたが、それもあるのかもしれない。それにしてもなんにしてもスゴイことには変わりはない。

 旅はこうして宇宙的にひろいお大師様の祝福を受けて無事終了した。
 日本全国に伝承があり、溶け込んでいるお大師様。
 まるでこの日本を守るために降りて来た天の申し子のようなお大師さんの柱はしっかりと日本という龍の腹を支えている。
 想えば熊野の大斎原で、天地をやわらかくむすぶ深々とした大地の波動を感じ、高野山で日本の霊的パノラマを感じ、お大師様の地球的太い柱を感じたこの旅というのは、予感していた通り、“日本”というものを大きく深く感じ取る機会になったように想う。
 やたがらすは想像していたよりもずっと慈愛に満ちたはばたきをみせて導いてくれた。熊野は当初抱いていたイメージのガツーンと男性的というものとは大いに違っており、後味がなんともまろやかだった。
 
 本宮参拝の夜、泊まった川湯の宿で忘れられない光景を目にした。
 部屋の窓から見える電線にひとつがいのカラスがとまっている。
 いつまでもいつまでもそこにそうしており、ときおりお互いを毛づくろいしあうその仲むつまじい姿、それはわたしのカラスの印象を根こそぎ変えてしまった。
 その姿に今度の熊野は集約されていく。

“よみがえりの地”

 それは言葉以上の本質を語っていた。
 自分や日本や世界が行き詰まったら、このことを思い出そうと想う。
 たましいの段階でそれは刻みつけられて消えることはない。
 そして、生きて死んでじつは死んでいない日本の歴史とひとりの人柱が、今ここに在ることを確認してきた。“充分”な旅だった。
                                   -終わり-
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by ben-chicchan | 2005-12-25 17:20 | 紀行文

《いにしえとみらいがよみがえる》熊野&高野山-2-

 今度はバスで速玉大社へ行く。着いたそこは那智大社からすると平地で、低い山は背景にあるが割と人里という立地だった。社殿はうつくしい朱塗りで比較的新しそうだ。
 女性的な姫宮かはたまた竜宮城といった華やかな感じ。
 年配の神職さんがさっそく説明くださった。
 そのあと本殿に参ろうとした時、装束をなさった若い神職さんが「御祈祷いたしますのでどうぞ。」とていねいにおっしゃった。
 これは予定外のことで御好意のままありがたく拝殿の中に導かれていった。
 拝殿にすすむとなにかおそれおおくもかしこくもなにかしら違った空気を感じ、わたしはすでにそこでじーんとしていた。
 神職さんはわたしたちのために折り畳みイスをみずから運んできてくださって言葉を発するのももったいない想いで静かにそこへ着席した。
 
 太鼓が打たれた。そして祝詞があげられた。その抑揚はアタマではなく、たましいのからだに響いて勝手にはらはらと涙が落ちた。
 ふるわれる御幣は俗世の垢を清浄にぬぐいさる。
 自分でも厄除けの御祈願をしたことがあるが、これは気休めではなく瞬間きちんと物理的(?)に祓われるものだということを実感したことがある。
 まさにそれが今なされていた。もちろんそのすぐあとに俗世にもどってしまうから多くの人は気がつかないかもしれないが、原始的感受性をもってしてみれば神道の作業の本当の意味はみえてくる。
 
 以前ここにきた人の話ではここは「お留守だね。」ということだったが、わたしもこの御祈祷を受けなければそう思ってすっと通り過ぎただけの印象だったかもしれなかった。
 神社・仏閣は人が育てるともいわれるが、神祀りによってそこは“神社”となり、天界とのつながりは深くなる。その天と地をむすぶいきいきとした場としてここと出会えたのはありがたかった。印象深いものとなった。
 
 社務所の別の神職さんはまた、もうその御祈祷の後味をそこねないばかりかさらにまあるく包み込むようなお顔で迎えてくださった。
 御祈祷してくださった若い神職さんの風情といい、ここは、あ、と思う“人”の印象的なところだと思った。
 やたがらすの素敵なお守りを手に入れた。小さな四角い黒い背景に螺鈿のように金に虹色に光るやたがらすをあしらった鈴守り。とても気に入った。
 ここでは梛の大木がシンボル的存在になっていて、榊のかわりにその梛の木の枝を使うという。帰りに寄ったその梛の木にはちょうど花の雌しべか雄しべのようなものがついていた。葉は独特のグラデーションをみせていてうつくしかった。

 それから4時半に熊野本宮で御祈願の予定。伏拝王子(ふしおがみおうじ)へまわってからバスで本宮に到着し、時間があったので参道わきの店で一服し、それから本宮の階段を上った。
 御祈願させていただく。
 せっかくここまで来たのでこの際、と思って申し込んでおいた。心願成就。
 玉串を捧げることができる。熊野本宮大社とかかれた白いうわっぱりを貸していただいて、正座した。やはり太鼓が始まる。
 しかしここの太鼓は独特な念の入ったもので、えんえんとつづいた。その鼓動を浴びているうちに、わたしの中にうねってくる衝動があった。
 自然に動きたくなる体。神に捧げる舞や踊りはそもそもきっとこういう衝動の賜物だったのではないだろうか。
 本宮の太鼓は黒々とした山や大地の地鳴りのようで、まるで黒い龍が踊っているようだった。やがてアタマは消し去られ、むねのつまりは決壊し、なにか清やかな熊野川の清流のようなものがむねを通って流れ出すのを感じていた。
 人っていうのは本来そんな存在であるのかもしれない。竹筒のような。
 申し込んだものの名が詠み上げられる。するとその人が柏手を打ってごあいさつする。こうして古い土地に祀られているいにしえの神と、今も交流する文化は尊い。
 その当たり前を忘れ、そこからあまりにも離れすぎるとどこか人はたよりなくいびつになって疲れていくような気にもさせられる。
 
 はなたれたむねの感触を味わいながら拝殿を出ると、奥の本殿の方へと向かった。
 流石に本宮といった風格を感じさせるどっしりとした造りのお社が四社、横並びに門の向こうに鎮座していた。玉砂利をすすんで順番にお参りする。
 この空間は写真も禁じられていて聖域らしいたたずまい。
 門から出て振り返ると、驚いたことに神々しいばかりの斜陽がうつくしく社殿にそそいでいた。なにかこれ以上ないようなタイミングのシチュエーションを感じた。

 記念写真を撮って石段を下ろうとして、50代くらいの神職さんに話し掛けられた。
 わたしは「ここはキャッチフレーズ通りの“人生を癒す熊野本宮”ですね。」と申し上げた。ここの本殿の門にはでかでかとそのような垂れ幕が下がっていた。
『蘇る日本!人生を癒す熊野本宮!!』
 神職さんはうなずいて、
「熊野は“よみがえりの地”ですから、疲れたらまたいつでも来て下さい。この下の方にある大斎原(おおゆのはら)はいまでもほんとうの聖地です。」
 とおっしゃってくださった。
 ちょうどこれからそこへ行く予定だった。ありがたく袖摺り合う御縁に感謝してそこを辞した。『ほんとうの聖地』という言葉が余韻を持って響いた。

 ちょっと行った河の中洲のようなところがそこだった。
 奈良の大神神社のような大きな鳥居が目に入ったが、鳥居からでなく、横から小さな橋を渡って川を越し、その地へと足を踏み入れる。
 川の景色はよけいなものがなく素朴に平和だった。神職さんの言葉からは想像はついていたがこの景色にわたしの中の鳥もさえずりはじめた。

 木立を抜けてなにげない林道のようなところをちょっといく。
 そこにその地は平けくひらけていた。

 『夏草や兵どもが夢の跡』
 『こずかたのお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心』
 
 といううたがわたしは昔から好きだったが、そんななにもない静かな神殿の跡地がそこにあった。緑一面ひろびろと野原になっている。
 樹々に囲まれて、そこは天園と呼ぶのにふさわしかった。
 そこに一歩足を踏み入れて、前奏曲がシンフォニーになってきたのを感じていた。わなわなと細胞にこの地の波動がしみてくる。ひとつひとつのわたしを構成する細胞が
「ああ!」と嘆息し、喜びにふつふつと沸いてくるようだった。
「そうそう、こうです、こうなのです。こんな地はこのくにに太古たくさんありました。そして今もここにこうして有るなんて、なんてこった!今ここにある!?まるで天界のようじゃアないか。」翻訳するとそんなようなわななきだった。
 今までに感じたことのある慈愛のようなものがしみてくる感覚と、ほんとうのものに触れてざわっと鳥肌が立つような感覚。そんなものが全部いっぺんにきた。
 感動にうなだれる想い。そして同時にピュアな高揚感。
 石造りの今はささやかな祀りの場に参拝している間に涙が浮いて来た。だれもいなければここで四半時号泣してもいいくらいだ、と想った。
 所有物としてではなく、この時、この土地を全身であいして融け込んだ。草も木も微生物も空も月も雲も全てこの瞬間この地というひとつの大きな慈愛に満ちた存在だった。この土地にあいされていた。
 今想えばこの地は日本という島のたおやかなある姿の象徴のようでもあり、さらにはこの星にも直結しているひとつの点なのかもしれなかった。ふるさと。その一部。わたし自身。この時の感覚、それは穏やかな歓喜だった。
 それ以外になにが要ろう。充分な想い。時もなく満たされる感覚。
 それさえあれば生きてゆける。
 場によってこれだけの想いをするとは、思ってもいなかったことだった。

 ここは一見跡地のようでいて実はたった今、なんといきいきと生きている聖地だろう。神職さんがそれをわかっていらっしゃるのがなんともこころ強くうれしかった。
 今も大事なお祀りはここでなされるという。
 わたしはもしかするとここに出会うために熊野に導かれたのではないだろうか。
 
 日本という地に覚える自信をとりもどし、深々とした満足感を抱いてその1億2000万の触手の一手に立ち返るという機会をまるで与えられにきたようだ。
 このことをもしかしたらほんとうの意味のくに(土地)のアイデンティティーというのかもしれない。それは他と争うことなどかけらもない、この世のものではないようなまるではかないような天の心地でありながら、誇り高くこの星やはるかな過去や未来に根ざす確固たるものだ。このことを想うとわたしの中に水晶のような涙のかたまりのようなものが出現する。せつないほど感動する。
 
 さらに想う。
 ほんとうに高貴なものはこの世のどんなものにも破壊されることはないのではないだろうか?
 洪水によって社殿が流された大斎原は破壊されるどころかこうも存在感のある輝きをはなつ。それは大きな自然の力のみならず、人々の恐怖にも浅はかさというものにもいえるのではないだろうかとこの時の大斎原での皮膚感覚がいう。
 観自在菩薩という意識はその高みにおられるのだろうか?不生不滅。不垢不浄。
 小さな一手は備えられた感情の波間に漂いながら、力を抜いてその支えられているものの神秘をしっかり畏敬して、ゆだねるよりないのかもしれない。
 でもそう思えるのもこうして現存する聖地に触れられたおかげで、その実在に感謝せずにはおれない。
                                 -3-へつづく


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by ben-chicchan | 2005-12-20 14:38 | 紀行文

《いにしえとみらいがよみがえる》熊野&高野山-1-

                              2002.5.16〜19

 熊野行きはいつもの道を歩いていたら、角から飛び出して出合い頭!という急なものだった。
 
 まずは紀伊半島では一番古いというお寺に行った。
 御坊というところにある道成寺である。
「安珍・清姫」の舞台になったお寺だそうだ。聖武天皇の母、藤原宮子(藤原不比等の娘)が創立の由来になっている。
 ここの物語では、このあたりの漁師の娘であった宮子は幼い頃髪が生えず、観音様にお願いしていた。するとやがて見事な黒髪となって美しい娘となり(かみなが姫)、不比等に見い出されて養女になった、という。
 文化財級の面々が立ち並ぶお堂で御本尊の十一面観音にまずお参りする。ここはなぜか柏手を打つ。それも4拍の2拍目を音を立てないという独特のやり方。
 それから順繰りに居並ぶ仏像群を巡ってゆく。大きな正面の釈迦如来の左隣の小さな釈迦如来の御像のところで拝んだ時、けっして大きくはない御像のその大きさとはうらはらにわたしには感じるものがあった。
 なにか温度とひろがりと存在感を感じさせる“気”のようなものがはなたれていて、わたしの頭脳を停止させる。御像と自分の気のからだのようなものがふれあっていてその結果、言葉や雑念が消えていく。あきらかになにかわたしと交流している空気があった。瞬間白くなれたここでのひとときだった。

 外に出る。なんとも年輪を感じさせるしっくりと深いたたずまい。
 なのに境内の大木を仰いだ時、わたしは未来の空と空気を感じた。未来にここを知っているような気がした。
 それは、未来の時点でわたしがここに在ることを今感じて“なつかしい”という三層の時間がその瞬間たばになって存在するというようなちょっと不思議な感覚。
 2000年以降時々感じる感覚だ。
 空に未来を感じる。それはどこまでもあかるい。なんだろうあの感覚は。
 おそらくそれは未来なんだと思う。そしてそれはどういうわけか懐かしい。

 その夜は勝浦温泉のホテル浦島に沈没。
 宿は船で渡ることになっている。その趣向は面白かった。船着き場が玄関ってところがちょっと楽しい。中に入ると巨大観光ホテルらしい銀座商店街なセンスが、またちょっとずっこけたアミューズメントパークっぽくて面白い。
 ここはいろいろ継ぎ足して作っていったような無計画に増殖したような有機的なところが、日本の温泉場っぽくて独特の面白みがある。船が着いた時、ちょっと「千と千尋の神隠し」の湯屋のホテル風、と思った。
 部屋から港が見えた。今はこんなビルヂングが建ったりしているが、地形を見ると昔はさぞやほんとに竜宮城のようなところであったろうなと思わせる湾内の風景だった。

 さあお風呂だっ!!
 “忘帰洞”という海を望む洞くつ風呂と、その反対側の“玄武洞”というお風呂に行くことを計画して浴衣でぱたぱた出発した。地図によるとそのふたつは隅っこ同志で一番キョリがあった。で、気合いを入れて歩くと、忘帰洞は思いも寄らず近かった。
 とるものもとりあえずとにかく中へ。思ったより小振りだが、たしかに洞くつ風呂だ。海が見える!もどかしくからだを洗い終えると展望露天風呂へ。
 海側に行けば行くほどドドーン・・と波の反響に包まれる。
 けっこう近くまで波が立っているのにここまでは満ちてこないのが不思議。
 洞くつに響いて波がサラウンド。脳みそのしわがのびていく。サルになった心境で“忘帰洞”の意味を味わいつくしていた。
 沖の岩にくだける波が「松竹!」いや「東映?」とおなじことを一緒に入ったEさんと思っていたのが可笑しかった。
 それから“玄武洞”へと向かう。どうせまたすぐ浸かるのだからとわたしはすっぽんぽんに浴衣をはおった。だが玄武洞への道のりは思ったより長かった。玄関ロビーを横切り、カラオケボックスらしきコンテナ様のデカイ箱が並ぶ不思議な空間を抜けて新しげな別名の姉妹館のようなホテルを抜けて汗かいてきそうな頃、やっとどんづまりの玄武洞にたどりつく。その名の通りシブイお風呂だった。お湯は乳白色で忘帰洞よりやわらかい感じで温度もちょうどいい。
 だが、ちらっと海は見えるものの海側は立ち入り禁止になっていたのがザンネンだった。しかしココはすいていたのでついプカプカ平泳ぎしてしまう。狭いので落ち着くといえば落ち着く。

 遠い道のりをもどる。晩御飯は銭湯の風景画のようなあっかるい背景の舞台のある温泉場らしい宴会場だった。港にまぐろの看板があったように思うが、やっぱりまぐろ、旨かった。食べ切れないで部屋にもどる。
 眠りにつこうとすると興奮もあるのかしばらく様々なイメージが湧いてくる。
 印象的だったのは那智の滝のような滝の印象だった。他にもなんだかわからないが白っぽい様々な印象が通り過ぎた。

 翌日、バスに乗り込むと熊野に向けて出発した。
 初めは那智大社。手前で降りると、大門坂という雰囲気のある熊野古道を30分ほど登って、さらに那智大社の467段の石段を登り、やっとやっとたどりついた。
 まずは本殿を参拝し、そのあとやたがらすであるところの鴨建角身命(かもたけつのみのにこと)が祀られているお社を拝む。熊野三山をめぐるにはその先導者のやたがらすにまず参れるのはきれいなながれ。
 そして本殿の横の素敵な大木の胎内くぐり。樹の中は外から思うよりもずっとあかるく空にひらけていて、大木の胎内からはしごで天に向かって登って出るという趣向はとても気に入った。護符を書くとお炊き上げしていただける。
 三山それぞれに違った牛王神符(ごおうしんぷ)というのがあり、魔よけとされている。わたしは熊野の本宮であるところの熊野本宮大社でそれをいただくことにした。
 
 隣に西国三十三観音札所一番の青岸渡寺がある。板東と秩父の札所巡りを始めたところなのでそのそもそもの始まりであるここに来れたのもうれしかった。観音様のお導きか。さすが一番札所。存在感ありあり。
 そこを出るとすぐにここ那智大社の御神体である那智の滝が目に入ってくる。やはりちょっと、おっと思わされる神々しい水柱が緑の崖によく映えて忽然と現れていた。
 ひろびろとしたそこは第一次シャッターポイント。朱塗りの三重の塔がまたこれ以上ないような位置を選んで構図されている。
 その眼下の三重の塔まで下り、なんと中の近代的“エレベーター”の恩恵を受けてさらにまた絶好のシャッターポイントへ。それから那智の滝のそばまで降りていく。
 さらに近付くには拝観料が要る。入り口を入るとすぐ霊水が飲めるようになっていて、那智大社と金字が入った白い盃が置いてある。せっかくなのでいただいてみた。ちょっと金属的な味がした。
 御滝拝所ではコマカイ飛沫がかかるほどだった。マイナスイオンもいいところ。高くなった鳥居のあるところで拝んだ。「九天門」と書いてあり、“九頭龍”のことだろうか?そりゃあここは龍の親分さんにふさわしい御滝だ。見ていると水が昇るように見える人もいるといわれるのがなるほどそうかもしれないと思えた。
                                 -2-へつづく
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by ben-chicchan | 2005-12-11 00:18 | 紀行文

GIFT《8:聖》〜マヤ紀行2001〜

 退院した。アナスタシアやマリアはいなくて、最後に別れは言えなかったけれど、その前に感謝の気持ちは残してこれたような気はする。帰ってから写真や千代紙を入れて手紙を出した。無事に届いているといいのだが・・。

 メキシコシティーへと飛んだ。
 初めに泊まったホテルへと“帰って”来た。
 帰って来て気がついたのだがこのホテル、『ホテル クリスタル』という名前だった。もう偶然みたいなこういうケースには慣れてきたが、ひとりでにやっとした。
 現地旅行会社の女性が涙を浮かべて迎えてくれた。
 旅行社の彼等のバックアップフォローがあったので安心して寝ていられた。個人旅行ならこうはいかなかった。渡されたキーが入った封筒に「お待ちしておりました。おかえりなさいませ」と手書きで書かれていて、あたたかい気持ちが伝わってきた。
 生きてこのフレーズを目にするのはやはりじんとするものだ。

 その日は旅行社が用意してくれた日本食弁当を部屋でいただいてゆっくりした。
 ボリュームたっぷり!えびフライにシャケにごぼうサラダに白いごはん。小さな容器に入っていたのはおしょうゆで、思わずはしにつけてなめてしまった。
 ほんの何日かごぶさたしていただけなのに、こうもうれしいものか。からだが疲れているときはよけいにうまいのかもしれない。米粒ひとつぶ残さずぺろり。
 
 翌日は病院に入院しているHさんと、ツアーをみんなの代表、“特派員”のようにひとり元気に続行しているFさん以外はメキシコシティーの中心部にある大学病院付属、といったような大きな病院の一角でハリ治療を受けた。そこにはチアパス州までやってきてくれたドクターのオフィスがあり、そこで別の日本人の先生がハリを施してくれた。
 ここは病院とは思えないようなレンガ造りの大学キャンパスのようなところで、花がきれいで、猫がたくさんたむろしている。
 待ち合い室はどこかの居間のような立派なソファーがある居心地のよい空間だった。
 わたしは元々ハリに興味があって学校に行こうと思ったぐらいだったが、自分の初めてのハリ経験がメキシコになるとは思いもしなかった。
 
 その日は午後は希望者は国立博物館や市内観光に連れていってくれるということだったが、わたしは翌日のティオティワカンのためにエネルギーを温存するためホテルでのんびり過ごすことにした。
 旅行社のはからいで個室が与えられていたが、ひろびろして淋しいのでTVをつけた。
 ちょうどギリシャ神話のようなドラマをやっていて、羽根のついた天使のような存在が崖っぷちにしがみつく男にしゃべりかけていた。話の内容はわからないが、見るともなくつけていた。チャンネルを廻すとスペイン語のポケモンをやっていたり、CNNで日本の芸予地震のニュースをやっていたりした。
 それから思いついて1階に降りてみた。
 ホテルのすぐそばの土産物の店を眺め、帰りがてら街角の写真を撮った。たいした距離ではないのに被写体には事欠かなかった。
 通りすがりのおじさんが撮ってやろうかというジャスチャーをしたが、預かったカメラを持ってとんずらするという手口があるという話も聞いていたので、断った。好意なのかもしれないが、街中では構えざるを得なかった。

 もう一軒の土産物屋はホテルの裏側にあった。店の前にフリーダ・カーロの肖像の等身大の平面の人形が立ててあり、中に入るとさっきの店より庶民的だった。
 だがここはあまり愛想がよくなくて、ひやかしの客に飽き飽きしているのか、あまりいい客ではないなと思われているのが感じられた。その通り。どんなに安くても要らないものは買わない。
 でもどういうわけか、なんだかその愛想の悪いおばあちゃんと商売っ気丸出しのおばさんのために何か買いたくなってきた。やっすいものでもいいから、メキシコにお金を落としていきたくなった。こういう普通の家族経営の店なんかに。
 手作りの皮製の小さなメモを買った。太陽と月の表紙。
 しかし、少々汚れて破れかけていたのでルールにのっとってまけてもらった。
 太陽と月。ティオティワカンを想った。

 いよいよ最終日。この日はグアダルーペにも行けるということだった。
 日本から駆け付けた旅行社の社長と帰りの飛行機のグレードアップの話になった。それが可能なことなのかはわからなかったが、重症の人もいるので全力を尽くしてくれるようだった。あとはこちらもできる行程をこなしてこの旅をいいものに仕上げなければならない。Hさんは一足先に日本で手術するために帰国し、ふたりホテルで静養するため残り、あとのメンバーで出発した。

 現地ガイドのKさんに替わって、ピンチヒッターガイドを勤めてくれたOさんは、ピンチヒッターといってもなかなか奥深いひとで、初めはただの調子のいい人かと思ったらとんでもない、遺跡や建築などいろいろ勉強していて人の情にも通じていてほんとの底の方でやさしく賢い面白いひとだった。おまけに気功師だった。
 Oさんは車中でMさんに気功をやってあげた。
 わたしはすぐ後ろに座っていたが、やっていることがよくわかった。そしてそれが自分だけでやれないということもよく理解できた。カミサマのような存在(エネルギー)と同行二人でやらないとひとりでは耐えられない。魔が差すというか、邪気を浴びてモロ影響を受けてしまう。
 けれども踏み止まってやっている人は無数にいる。それは神様に“使われている”のかもしれない。

 まずはグアダルーペに向かった。
 カトリックの聖地なので世界から人が集まるらしい。巡礼者で栄え、おみやげものやさんが軒並み並んでいる。敷地内もところ狭しと出店が出て、お祭りのようだった。
 まずはまっすぐマリア様のところへと行く。
 このマリアはメキシコ独特の浅黒い肌をしたマリアで、ある男のマントに浮き出たというそのマリアの像(絵)を御神体として人々が拝んでいる。奇跡のひとつとされている。
 近代的な建物に入ると、一緒に入ったMさんが反応して前に進めなくなった。
 あまりのマリア様の存在に打たれたようだった。
 わたし自身は“あがった”のか、少し散漫気味のようになって、奇跡のマリア像の額を見上げる平らなエスカレーターの上に乗ると、ただ小さなひとり子となったように畏れ多く仰ぎ見るばかりだった。カトリックでもないのに十字を切っていた。自然に敬意が発露した。何度かエスカレーターを往復してそこを抜けた。
 ちょうどミサをやっていてマリア像に向き合って大勢のひとが聖歌を歌っていた。
 マリア様を中心にひとつのこころになること、そのことも“マリア自身”のような気がする。マリアからあふれ出る慈愛のこころと垣根なく溶け合うことがマリアの望みであり、そこにマリアにふくよかにいていただくひとからの恩返しでもあるようだ。

 そこを出て、マリアのカードやらおみやげものを買い、車にもどった。
 車はゆっくりと出て、ちょっと行くと交通量の少ない道に入り、Oさんたちは道を聞いているようだった。ああ、よかったなと思うばかりでなんにも考えていなかったら、あるところで止まって車を降りることになった。
 なんとそこはあきらめていた“修道院”だった。
 ツアーに組み込まれてはいたが、ガイドのKさんが怪我で降板したため、現地スタッフでも場所がわからないようでこれはムリだな欲をかくのはやめようとあきらめていた。
 神の御加護!まさかの訪門。どこかふか〜いおはからいを感じずにはおれない。
 なぜならそこはやはりわたしにとって今回はずせないポイントであったような気がするからだ。
 ほんとうに地元の人も知らないというのがうなずける小さな入り口をOさんはノックした。年配の赤いカーディガンをはおった女性がうさんくさげに顔を出し、警戒顔でOさんにいろいろ質問した。
「いったいどこでここをお知りになりましたか?と言っている。」とOさんは通訳しながら、ペラペラペラペラとその女性に語りかけ、女性はうなずいて奥に引っ込んだ。するとOKが出て、マザーがお会いくださるというはなしになった。Oさんマジック。

 はちきれんばかりのチャーミングな笑顔の、わたしぐらいか、もっと若いのか、年齢不詳の修道女が楽しげに出て来て、みんなの顔を見回した。
 長いスカートを持って来て、上からはきなさいと渡してくれ、頭にかぶるものも貸してくれた。
 カトリックじゃないと本来は入れないところなので、ひとが来る前にOさんに
「カトリックって手を組んで?どう祈るんですか?」ときいたが、Oさん
「ま、こう(手を組むマネ)でしょうけど、こう(手を合わせて)でも、要は気は心ですから。」というようなことを・・。実家がお寺さんだけに寛容な・・。
 マザー(この人は若いけれど上から二番目のマザーだった)の案内で礼拝堂に入る。入るところに聖水があって、身を清めた。Fさんはすでにそこで大感激していた。
 思ったより荘厳というよりはあかるい感じのところで、Oさんのマネをして二列目の席につこうとして、ふと前の席のOさんが膝当てをしているのが目に入った。たたんである自分のところのも開こうとした。
 すると重みで、それは開くとか置くとかいうなまやさしい状況を通り越して“落ち”、
バッタアアアア〜〜〜〜ーーンン!!!という天界からジゴクまで響き渡るような大音響がして、
(神様!皆様っ!ごめんなさいっ!!!)とさっそくざんげするハメになった・・。
 ここぞというところでハズシて神様にも笑いをとるワタシ・・。アーメン。
 やれやれ。気を取り直してドキドキを鎮めてこの空間を感じようとした。
 このハプニングのせいかどうか天啓はなかったけれど、だんだんにあたまがシーンとしてきて“なくなる”のは感じた。あたまがなくなってあかるくふといひろい空気に満たされていくような感覚だった。
 なにしろここの印象は、あかるく親しみやすくしあわせに満ちた場所、というものだった。ここのマザーがその空気を代表しているようだった。神様はけっして遠い存在ではない、と、にこにこしているという印象を抱いた。

 カトリックでないことはバレバレであったように思うが、そんなことは一切気にしていない風のマザーだった。
 もしかしたらOさんはわたしたちが事故に遭ったことも伝えたのかもしれない。
(首にサポーターを巻いた一団であるので、一目瞭然であったかもしれないが・・。)
 礼拝堂を出るとうつくしい花が咲く中庭でマザーを囲んで輪になった。
 神妙な顔をしている人には「どうして笑わないの?」と笑いかけ、
「今度来るときはこの服を着てね。」と自分の服を示して冗談ぽく笑った。
 わたしは思わず自分のカメラを示して
「一緒にお写真撮らせていただけないでしょうか?」
と日本語で言うと、即うなずいてこころよく応じてくれた。
 こころあたたまるひとときとなった。
 
 そのあと、建物に入り、シスターたちが家族と面会する部屋にも案内してくれた。
 家族といえどもそこまでしか入れないらしく、一生を神に捧げるシスターたちの唯一の家族とのつながりの場だった。
 その部屋はなんともあたたかかった。こんなに“愛情”を感じる部屋に入ったのは初めてかもしれない。
 はなれていても家族との絆はより強く、愛は深いような気がした。
 そして、入り口のところにもどり、記念のものを探した。カード、十字架etc.
 そこでいろいろ見ているとマザーたちは大きなガラスのコップになみなみとリンゴジュースをついでひとりひとりに持ってきてくれた。
 Fさんが聖水を分けていただけないかと申し出ると、これまた気前よくミルクの容器にたっぷりと入れてひとりひとりに分けてくれた。
 最後の方で大柄のマザーも現れて、(どうも“一番”のマザーらしい)Oさんと楽しそうに語らった。ほがらかなマザーたち。
 Oさんは以前えらい牧師さんに質問したことをマザーともしゃべったらしい。研究でも修業でもなく一般庶民の素朴な疑問となるとその牧師さんはひとことでは答えられなかったそうだ。
“愛ってなんですか?”
「わたしはかんたんなことだと思うんですよ。となりのひとを愛するってことでしょ?“隣人を愛せよ”っていうでしょ?いやなひともいますけど、あんたのここはきらいだけど、でも好きよってそういうことだと思うんです。」
 マザーと楽しげに盛り上がっていた内容をあとでOさんは車中でぽろっと口にした。
 わたしはいかにもうれしそうに受けていた大柄なメガネのマザーの顔を思い出してにっとした。
 Fさんが言った「ああ、これでだいじょうぶだ。」というコメントにとても深くうなずける場所だった。

 さあていよいよティオティワカン!
 後から思うと“お清め”のようなグアダルーペと修道院を消化して、最後の仕上げの場に向かう。
 立派な高速道路が通って、ティオティワカンというところは便利な立地条件だった。
 いや、もともとティオティワカンがずっと前にあったのだから、そのそばにメキシコシティーが出来たというのが正しい。
 快適にラクに向かえるのはこのスペシャル・ツアーの“スペシャル”スケジュールからしてありがたい。
 もっともこういう日程に組まれたのもどこか“仕組まれている”気もするが・・。

 途中のレストランで昼食をとった。外国人観光客がたくさん来ているそこでは、羽飾りをつけたマヤの衣装で踊りが披露された。
 出るときにチップといわれて急に現実に引き戻される。
 みやげものコーナーでわたしはマヤ人の横顔を描いたキーホルダーを見つけ、手にした。ひとつだけあたまの羽飾りに麦の穂がついているものがあり、『生命』を感じてそれを買った。闘いやいけにえや神への畏れだけではない素朴な“希望”と“喜び”をその一本の麦の穂に感じた。

 車に乗り込んでピラミッドへ向かう。
 木や緑というよりも土っぽい砂っぽい大地にひろがるティオティワカン都市。
 そこにそびえるピラミッドが見えてきた。一大観光地としてひとびとを引き寄せている。
 駐車場で止まって車を降りる。
 初めにこの都市のものすごさを見せつける遺構に足を踏み入れる。うつくしい模様に見える壁は石をセメントで積み上げており、もとは真っ赤に塗られていたそうだ。
 部屋の隅にはトイレも残っており、排水設備も完備。とても日本の古墳時代とは思えない。建築学的にも現代に通用する構造になっており、強度を保つ角度にも狂いがないそうだ。様々な壁画の説明を聞き、ラーメン鉢のふちの模様のようなのが“水”を表わしていると聞いてふーんとうなずき、その遺跡から外へ出た。
 大通りのどん詰まりに位置する月のピラミッドが目に入ってきた。
 メキシコに来る前はピラミッドのそばに行けるだけでいい、上まで登れなくとも満足だと思っていたが、ごく自然にながれに飲まれてその鎖付きの急な階段を登り出した。
 行けるところまで、行けるところまでと思いつつ、ついつい頂上のすぐしたの踊り場のようなところまでなんとか登ってしまって、座り込んだ。
 修道院でもらった聖水をちびりちびり飲みながら登るとなんだか楽だった。
 そこで一緒に登ったFさんとMさんと並んで大通りや太陽のピラミッド、周囲のひろびろとひろがる景色を眺めた。大きな街の跡だった。
 大通りのふちにぐるりと並んでいる建造物は上から見ると不思議だった。なんのためのものなのか。祭壇のようだった。大きな鍵穴のような形に並んでいる。
(ひとつひとつの上に神官が立ったらなんだか面白いな。)と思った。
 曇っていた空に晴れ間がのぞく。自然にからだが反応して太陽に向かって柏手を打った。

 月より大きい太陽のピラミッドに向かう。Iさん、Mさん、Fさん、わたしの4人は見上げるばかりの巨大なピラミッドを登り出した。
 半分こりゃ登頂はムリきゃも・・と思いつつ
「ゆっくり行くから・・。」とビリケツ態勢になった。ちょっと行ってはアル中患者のように聖水をラッパ飲み、ごっちりごっちりと登った。
 最後の踊り場に出たときはさすがにしばらく息が整わず、むねも苦しく、頭まで痛くなりかけた。しばらくそこで休んでようやっと落ち着いて、ふと頂上がすぐそばなのに気がついてそりゃっと最後のでこぼこを乗り越えた。
 そこにみんないた。
 Fさんにうながされて、そこに埋め込まれて他の人が触っていた3cmほどの小さな銀色の金属のようなものに、4人して人差し指をあてた。それがこのピラミッドの中心の目印らしかった。
 わたしは足がほかほかしてきた。
 この“神への祭壇”に来れたことに感謝を捧げ、地球上のすべての上に平和のあらんことを祈った。
 Fさんは「あつい・・。」が「あちちちち!!」になって、それを合図にみんな手を離した。
 さんさんとふりそそぐ陽の光を浴びてこのうえない充足感に顔をゆるます。
 この時にピッタリだと思い、聖水を回し飲みして乾杯した。
 この時撮った記念写真はだれに見せても事故後だとは信じてもらえず、すっこ〜んと抜けた笑顔のわたしがそこにいる。

 全員で無事に登れなかったのは残念だったが、でもいつかどこかできいたことがあった。その日、その時、その場所にいる人数は多くも少なくもなくピッタリの数だ、と。たったひとりだとしてもそれは意味がある、と。
 11というのはマヤン・オラクルでは“不調和”を表わす。けれどもそれはエツナブを調和させる聖なる数。今回のツアーは運転手まで入れて11人だった。
 そして奥深いものを感じたのはピラミッドに登ったメンバーにこのツアーのエツナブが揃ってふたりもいたことだった。エツナブというのはどういうもので、それは何を意味しているのだろうか・・。解釈しようとは思わないが、大きな鐘が響いているようには感じる。ここにエツナブの項にのっている詩をそのまま写してみる。


『めざめをうながす詩』

わたしはエツナブ、鏡の間
わたしはただ、おまえの本当の姿を映して見せるだけ
あるものはその姿を美しいと思い、あるものはゆがんでいると思う
わたしはまさにおまえであり、鏡に映し出されたホログラム
明らかなる現実の鏡から、おまえに本物のビジョンを見せる手段

空となり、シンプルとなり、静寂となって
鏡の間の中心にむかって旅をせよ
頭でつくりあげたこの世の幻影、ぐるぐる回るその迷路から、おまえは脱出するのだ

わたしはエツナブ
パワフルな現実があらわれる、時間を越えた反映
そこは時間が止まり、大いなる神秘があらわれる入り口
この瞬間を捕らえろ、鏡の間に入ってゆけ

時間のないこの場所で、自己の果てしない反映の場所で
「わたしはいったいだれ?」とおまえは問う
鏡の中で片鱗が集まり、形となりはじめるとき、答えが返る
「それはわたしだ」と
二つの世界の中間が、鏡と現実の中間が、おまえを招く
入ってくるようにと

魂の戦士、おまえは鏡に近寄りささやく
「真実よ、わたしの新しい名を呼べ」
鏡の間が空の中にある力強い波動を発する
言葉が語られ、現実と次元が一点に集中する
まさにおまえの目の前で鏡が溶けていく

おまえはその鏡を抜けて、大いなるこの現実で自由の身となる
そこでおまえはマヤのピラミッドに出会う
頂上めざしてよじ登るため、おまえは空(くう)となる
そのとき、おまえは神の力が降り注ぐ神秘の庭を感じるだろう
もしもおまえの気持ちが揺れ動いたら
「いまここに、この瞬間の現実しかない」といえ

頂上にたどりつくと、ピラミッドの中心にある、輝く模様に引き寄せられる
そこはおまえが期待せず、天に向かって座る場所
完全なる展開、その恍惚の中で、結合と無限のときが流れていく

真実の剣と光をともない、翼のうちに静寂を秘め、光り輝く存在が降りてくる
その光は、おまえのもっとも暗い幻影を突き抜けていく
おまえは恐れず自己の死を待つ

儀式のための剣を受け取るとき、真実を焼きつけたその刃は
おまえの頭上からハートの中までを貫き、幻影を切り裂き

ひとつの空の道具として、聖なる存在をあらわにする

天にむかうクリスタルのピラミッド、天から降りてきた神のピラミッド
この二つが出会う瞬間の光
それがおまえ自身であることを、もう一度思い出すがよい

おまえは清らかに浄化される・・・真実の子供として
恵みのうちに再生される・・・光として
大セントラルサンの子供として
永遠なるいまの子供として

この聖なる再会で、おまえがひとつの意識という木から落ちた果実なることを知るがよい
                         ---マヤン・オラクルより---

-*-*-*-*-*-*-*-*-

 春分の日のチェチェン・イツアー遺跡で見られる太陽の仕掛け『ククルカン(ケツアルコアトル)降臨』をメインにすえたツアーだったが、考えてみればトニナですでにそれはあったのだった。
 春分の日のそれがもっと大規模な“交差点”であるのかもしれないが、そのときを待たずククルカンにご降臨いただいた。エツナブの鏡の間で。
 そんな気がなんだかしてきている。
 あまりにもこの地図(マヤン・オラクル)が奥深いので、時々ガツーンと涙流れるときすらある。様々な言葉や色や光や絵や、音楽や人や風景に遠い記憶を揺すぶられる。
 思い出すひとが増えている。ある壮大なプランのために(?)。
 騒がしくも楽しみなこれからになりそうである。
 目の前のピラミッドを登るには、憎しみあうひまはどうやらあんまりなさそうだ。(完)

                              赤い水晶の空歩く者

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by ben-chicchan | 2005-11-09 00:12 | 紀行文

GIFT《7:開》〜マヤ紀行2001〜

 翌日になってそういえば撮っていないなというレントゲンを、どうやらやっと撮るらしく連れていかれた。
 レントゲン室の扉を開けて中に入ると前の人が撮影中で、濃い顔の恰幅のいいメキシカンがまるでスポーツをしているようにリズミカルに撮影していた。となりの部屋ではBGMがかかり、それに合わせて時々歌っている。
 ひとりの撮影が終わると彼はとなりの部屋に引っ込んで、ひときわ大きい声で音楽に合わせて歌い出した。まるまる一曲歌い終わるまで出てこなかった。
 アリアというかイタリアっぽい曲で、この光景はまるでイタリア映画でも見ているみたいだった。病院のレントゲン撮影というよりは、街角の写真屋さんというようなこの人生の楽しみ方(?)にあっけにとられながら、くすくす可笑しくなった。
 こんな世界もあるのか。
 このレントゲン写真はSさんいわく「日光写真みたい・・。」だった。
 だが、ここに住んでいる人たちにはこれは当たり前の日常で、このレントゲンをたよりに生活していて日本のような医療を受けられるわけではない。
 日本のように技術、とか、きちんと、とかいうところは地球上ごく一部と思ったほうが自然かもしれない。
 そしてどっちがいいかといえば、マヤ流に大きくとらえればわたしにはどっちとは断言できない。

 事故の翌日のこの日の夕方、病院を移ることになった。そのことを耳にした直後、ちょうど終わりかけた点滴の追加を、青いアイシャドーにピアスをした堂々たる下町のアネサンといったような中年の看護婦さんが持ってきて、Sさんに取り付けようとした。すぐにも病院を出るような話だったのであわてて
「NO, NO !」と手を振ったがなにしろわたしはブラックリスト人なので看護婦さんまたあという顔をして取り合わない。
「いやそうじゃなくて、ドクトル、ドクトル、ポルファボール!(先生お願い!)」
とかなんとか言うと、まったくもうと苦笑しながら聞きにいってくれた。
 帰ってきた彼女に「OK?」ときくと、にや〜っと笑って「NO〜。」
「NOー!!」とふたりで合唱すると、笑いながら点滴を取り始めた。あーやられた。ジョークだった。こわそうなアネサマだと思ったがそうでもなかった。

 警察の事情聴取を終えて、病院を出ることになった。なんだかなじんで居心地がよくなったところでさようなら。
 トニナの帰りに「ここに泊まりに来ることは・・ないよな。」と思ったが、まさか泊まることになるとは・・。それもこんなにはやく、こういうかたちで。人生わからないものだ。
「運転手にはみなさんは事故に合われたばかりだから十分気をつけてゆっくり行って、と言ってありますから。」と、駆けつけて手配してくれた現地旅行会社の人に言われた。
 始めはその言葉通りゆっくりという運転だったが、実はけっこう距離があって4時間くらいかかるらしく、だんだん地元ペースというかラテンペースにもどってきてブンブンすっとばした。山道のくねくねも通るのだがトラックもごんごん走る幹線道路らしく、たしかにある程度は流れに乗らないとかえって危険でもあるのであとはもうしゃあない、おまかせ、である。
 ひたすらごんごん走るうちに眠くなったらいかんという意識もあるのか、運転手はとなりのメキシカンとペラペラしゃべり出した。ラテン系のノリで調子にのると横を向いてしゃべる。
(お〜い!)と思いつつ、とにかくまな板の上の鯉。無事を信じてこっちもとなりのTさんとしゃべったりしながら身を任せるしかなかった。
 でもけっこうこの時のおしゃべりは楽しくて道中なごんだものだ。

 思ったよりも時間がかかってやっと大きな街に入った。
 だがそれから目的の病院がなかなか見つからず、ぐるぐる徐行しながら、街の人に2回聞いてようやくその病院にたどりついた。もっと近いのかと思いきや、この距離を気を遣いながらの運転はさぞやと、疲れのにじむ運転手さんたちにも感謝。
 車を降りると日本人が3人で迎えてくれた。ドクターと現地旅行会社のふたりだった。病院に一歩入るとこぎれいでいい感じがした。ひとの感じもわるくなかった。安心できるところに着いたという印象がした。
 ドクターに診てもらうためオフィスの待ち合いソファーにみんな座り込んだ。
 Mさんが部屋に入っているとき、Sさんが突然思い出したように笑い出した。
「あの看護婦さん。はっはっは・・!」
 すぐにわたしも例のアネサンのことだとピンときてつられて笑い出した。
 ほっとして緊張の糸が切れたのか、腹の底から可笑しくてヒーヒー笑った。火に油を注がれたように止まらなくなって大笑いした。らっきょうが転がっても可笑しかったと思う。あんな笑いは久しぶりだった。そんなつまらないことで。

 診療を終えて、ひとまず安心した。病室に案内されるとそこは個室だった。二人部屋だったあとなので少々淋しさを感じたが、TVにトイレ、洗面所、シャワーまでついたホテル並のところで、いいところに入れてくれたのだなと実感した。
 夜も遅かったので、旅行社の人が夜食の買い出しに行ってくれてサンドイッチとコーラを持ってきてくれた。
 ありがたかったなー。ほんとにありがたいおいしい夜食だった。がつがつ食べた。普段は飲まないコーラまでウマかった。こんなファストフードだというのにいまだにあのウマサは忘れられない。
 またしても点滴の続きを受けながら、しかしその夜は眠れそうだった。
 たいして日は経っていないのだが、何日分もあるこの2日間だった。

 翌日はゆっくり静養。とはいえ点滴だなんだかんだと出入りはあり、驚いたことにサービス専門のスタッフというのがいて、何か困っていること、足りないものはないか?ときめ細やかにケアしてくれて、何かあればわたしに電話してくれと番号を置いていった。感心した。日本にはこんなサービスはあるのだろうか?
 その後、困ったことはなかったのでその人とはそれっきりだったが、そういう仕事があること自体がちょっとカルチャーショック。
 彼女はわたしの担当看護婦も紹介してくれた。インド人風の美人でとても素朴な笑顔を見せるそのアナスタシアの顔を一目見て思わず気に入って「ベ〜リ〜グー!」と笑うと彼女もうれしそうにニッコリしてくれた。

 この日は大使館の人もやって来て、やっぱりこれだけの人数で転げるとこういう人もやってくるのだなあとフムフム。
 彼は「たいへんでしたね。」とかなんとかおっしゃって、わたしは
「おかげさまで軽傷で・・。」と言った。するとビックリされて、
「ムリなさっているんじゃないですか?」と言われ、
 あ、そうか、首にサポーター巻いて点滴ぶらさげている図はそう見えるよなとはたと気がついた。その時、ツアーが希望者は続行されるというはなしになり、やはり
「 ムリはされないでくださいね。」というようなことを言われた。そりゃそう言うだろうなあ。
わたしは、「明日のことは今日決められないので明日考えます。行ければラッキー。行けなくてもともとですから。」というようなことを言った。
 あまり執着はなかった。ながれのままにゆだねようと思っていた。
 なにしろ完璧らしいから。この旅の前半で得たものによると・・。
 だいたい転げたときに中止だなと思っていたので続行は寝耳に一級茶葉芳香天界茶(!?)
 わたしはドクターが最終日のティオティワカン、行っていいようなことを言ってくれたのでぎゃふんと驚いていた。
 ティオティワカン!それはわたしがこのツアーを最後まで乗り切った時のごほうびとして日本でイメージしてきたところだった。
 ティオティワカンの地に立つことをこの旅の成功のイメージとしてきた。
 う〜ん・・。一寸先はほんとにわからない。こういうこともあるのか・・。

 この日はあらためてもう一度レントゲン撮影があり、ふたりの男性がやってきた。
 レントゲン技師さんらしいメキシカンは憎めないがちょっとクセがあり、わたしの名前を大声で間違える。訂正してもきかぬそぶり。
 もうひとりのTシャツにGパンのおにいさんはこころをこめてていねいに車椅子に移してくれてちょっとうれしい。人様にこんなに大事にされることは普段はそうはないのでお姫様気分。
 レントゲン室に運ばれる途中、こどもに手を振ると恥ずかしがっていたその子はおかあさんにうながされて手を振りかえしてくれた。
 みんな日本人は珍しそうで、おまけにオコシンゴの事故はラジオニュースかなにかで流れて知れ渡っていたらしく、注目を浴びて気恥ずかしい。
 だがせっかくなので草の根外交。
 Mさんも地元のおかあさんに頭を洗ってもらったり、お礼にせんべいをあげたりしたそうでそういうことはこういうことでもないと、なかったろうな。

 レントゲン室に運び込まれると寝台に寝かされた。ここは寝て撮るらしい。
 技師のメキシカンは相変わらずわざと間違えて名前を読み上げた。
(あっわかって言ってるな!)とこっちもごていねいに訂正してやりかえした。
くっくっく。可笑しい。こっちの人はこういうちっちゃなやりとりを楽しんでいる。まったくの初対面の外国人とも。
 Tシャツのおにいさんは撮る間そばにいてからだを動かすのを手伝ってくれた。
 間があったので数少ないレパートリーからしゃべりかけた。
「メグスタ エステ オスピタル(わたしこの病院好きです)」
 すると通じて、彼は笑いながら「なんたらかんたらパラダイス?」と言った。
「あっ、それじゃここは天国だろう?」とか言ってる!とわかって、「はははは!」と受けた。すると向こうも意味が通じたことに愉快そうに笑った。

 2回か3回しか会わなかったが婦長さんのようなひともいた。
『シーラという子』という本を書いたトリイというひとのような、ひとを包み込むような大きなあたたかい笑顔のひとで、
病室に「オラー!」といって入ってきた。オラは親しみのこもるあいさつ。
 来るだけで安心感をはなつ。その存在自体が病人のクスリ。それは経験と人徳のなせるワザだった。
 顔施(がんせ)という言葉がある。笑顔だけでひとをなごませる。そんな言葉を思い出させた。

 他にも印象深いひとがいた。
 そのひとは病室の掃除をしにきてくれる40代くらいのマリアさん。1日に1回か2回必ず顔をあわせるうちにどういうわけか惹かれて声をかけた。
 名前を聞いてハッとした。
 今このときにきく“マリア”という名前は特別な響きを持っていた。
 まるでこうしてわたしのような怪我人や病人に出会うためにそこに遣わされているかのようなひとだった。
 名前のとおり、マリアはみるからに信仰深そうでシャイな感じがした。
 だが、どういうわけかあまり話さなくても信頼がおける感じがした。にんげんの印象というのは、そのひとの全存在から“感じる”ものであって、たとえそのひとが他のくにのひとで言葉があまり通じなくともなにかがすとんとフに落ちることがあるものだなと、マリアに出会って想った。
 信仰深いということを実際のひとによって好感を抱いたのは初めてだったかもしれない。 
 名もなき一掃除婦に“マリア”は宿っている。
 
 わたしは自分が持っていたグアダルーペの天使のカードをマリアに見せたくなった。
 このカードはこのツアーを主催した旅行社の別のメキシコツアーでのおみやげプレゼントに応募して当たったものだった。タイミングが“シンクロ”しすぎて勝手にわたしは“メキシコの招待状”と呼んでいた。
 彼女はおしいただくように両手でそれを大事そうに受け取ると、ていねいに裏の説明も読んで自分の胸にあてた。
 そして「プレゼント?」とほんのり茶目っ気をのぞかせながら言った。
 彼女が冗談ぽく言うのを楽しく思いながら笑って言った。
「あ〜・・、メグスタ エスト・・.(わたしこれ好き・・なのであげらんないのよ〜)」
 マリアははにかむような笑顔を見せて首を振りながらわたしを抱きしめるそぶりをした。
 その時思いついてわたしはベッドから降りると荷物を探って日本の飴をひとつかみ取り出した。
「ハポン カラメロ・・ドウルセ(日本の飴。甘いよ。)」
 ちょうど枕元に出しておいたスペイン語会話の本で引きながら、そう言ってそれを渡した。マリアはにっこりしてポケットにそれをしまった。
 うちに帰ってこどもたちにはなしをしながらあげてくれたらマリアのうちの今日のちょっぴり楽しいエピソードになってくれるだろうか?
 彼女の写真をあとで撮らせてもらった。それはわたしのこの旅のお気に入りの1枚となった。
 退院する日、これで最後になるかなというときごく自然に満面の笑みがこぼれ、両手をひろげてマリアをハグした。そのときのために本で調べておいたフレーズを添えた。
「ロ エ パサード ムイ ビエン. ムーチャス グラシアス.(楽しく過ごしました。ほんとにありがとう。)」

 アナスタシアも今回縁の深かったひとりだが、黙っていると大人びてみえる彼女はきいてみると21歳とのことだった。そういえばナースステーションにもどって同僚としゃべっているときの様子は日本の20代と一緒。
 最後の点滴になったとき、きれいに時間内で終わらすために点滴の速度を速めていった。するとだんだんからだに負担がかかってきて、(う〜ん・・しんど。)となったので、初めてナースコールを押した。
 アナスタシアは飛んできて、
「ラピド(速い)・・。」と言うとすぐ合点して速度をゆるめてくれた。
 このまま別れるのはなごり惜しく、住所をきいた。
 彼女はすぐにでも会えると思ったのか、勤務時間までていねいに書いてくれた。
「カルタ(手紙)・・。」と言って手紙を書くジェスチャーをした。
 彼女の写真も今回の宝だ。

 メキシコ チアパス州 トウクストラ グティエーレスのサナトリオ ロハス病院。
 ここはどこか働く人の上に天使が遊んでいるようなそんな病院かもしれない。

 ずいぶん後になってガイドのYさんにきいたことで深く合点がいったことがある。
 トニナの瞑想でケツアルコアトルはわたしたちの“カギ”を開けていったというのだ。“カギ”を開けただけなので、あとは開くのは自分次第なのだが、トニナ以降わたしのなにかがパッカンパッカンと“西部の酒場の扉”状態なのに自分で気がついていた。
 こどもの頃でさえこうも自由に開いていなかったそれとの再会は自分に対するオドロキとなっていた。素っぴんの等身大のジブンがズッコケながらそこにいた。
 いや、素っぴんどころか、すっぽんぽんだ。
 な〜んだ、そこにいたのか。ずいぶん探したよ。
 近頃想う。30も半ばを過ぎた頃、ひとはオギャーと生まれることがある。
 それも1回で済むのではなくて、思えばひそやかなのを入れるとこれで3回目ぐらいだ。ほかのひとがとっくに生まれ終わっていることをこの年で味わうこともある。
 ということは思ってもいないような40や50でまたすっぽんと生まれ出るのだろうなと思う。キリがない。
 年をとるのは驚くべきことだ。想像を越えた楽しいことだ。なにかを経験することはいいことだ。どんな経験も生まれるためにある。そして、“再会”し、その“わたし”を生かして(活かして)いくためにある。
 おおきなながれのなかに。しくみのなかに。
 それはマリアの場合、病室の掃除をすることだ。そんな“尊い”仕事をしたいと想う。あるひとは キオスクでガムを売ることかもしれない。あるひとは病院のベッドの上でほほえむことかもしれない。どんな仕事にも“しごと”をこめることはできるし、いい“しごと”のできるひとでいたい。
 名も無い一庶民の、お天道様に沿う小さなくらしはうつくしい。
(そのままいきなさい。うつくしくありなさい。たのしみなさい。)その三つのインスピレーションをわたしは感じていた。うつくしくの意味はながれに逆らうな、ということだと思った。ながれというのはうつくしいのだと。
                                《8》へつづく
 

 
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by ben-chicchan | 2005-11-01 00:03 | 紀行文

GIFT《6:転》〜マヤ紀行2001〜

 オコシンゴでマリオを降ろし、パレンケまでの帰路についた。
 行きしに車窓から見た市場は、すっかりきれいになにもなくなっていた。魅力的な村だった。いつかここに泊まりがけでくることは・・と一瞬夢想した。ないよな・・。
(と、思っていたのだが・・。)

 あとはまたあの山道を帰るだけ。昼は軽めだったし、食べていない人もいるし、みんな疲れて眠ったり、ただ揺られていこうという態勢だった。わたしもぼーっとしていたように思う。途中寝ていたかもしれない。よく覚えていない。
 とにかくずいぶん経ってからだった。
 
 突然の絶叫に目を見開かされた。
 ガガン!という振動とともに目の前の景色が回転し始めた。不思議な光景だった。車内は電気がついているように明るかった。
 とにかく回転するのだ。
(あーっやったか!これが事故ってやつか!わたしたちが!?)
 と思いながら、同時に
(とにかく力を抜いて転がりなさい・・。)
 というインスピレーションを感じた。
 他にすることもないので無意識に1回、2回、3回と数えて
(まだかいな〜、もうそろそろかんべんして・・。)と思った頃、ぐしゃっという感じに衝撃とともに車はつぶれてようやっと止まった。
 その衝撃で顔面を打ってメガネが鼻に当たってまっぷたつになり飛んでいった。
 運転手はまた叫んでいた。神様とかなんとか言っているようだった。
(運転手、はさまったのかな・・?いや、動き回っているみたいだ。こりゃ、誰かたいへんかもしれない・・。)
 けれども運転手の元気(?)な声に、助けてくれるかな?とちょっと期待を持った。
 が、彼の精神的ショックは想像を超えるものだったらしく、叫び回り、それが肉体的にもこたえたようでダメージは大きく、他の人間を救助するどころではなかったようだ。
 わたし自身もどこをどうしたのか、はさまっていないか、動けるのか、と我に返るとすこしひやっとした。その時が一番おそろしいといえばおそろしかったかもしれない。
 そう〜っと動いてみるとどうやら動けて、車のすきまから外へずり落ちるようにこぼれ落ちるように出ることが出来た。出たところでうずくまって動かないようにした。
 それこそ打ちどころが悪ければ動くことで助かるものが助からぬということもあるかもしれない。とにかく自分をなんとか支えなくては。それが病気持ちの人間に出来る最大の仕事だ、とまず思った。
 痛いところはどこなんだろうと思ったが、ショックのあまりよく分からず、でも顔に血がついていることには気づき、気分がわるくなりかけた。
 精神的なものが大きいことに自分でも気づいた。しかし、精神は肉体と直結しているので莫迦にできない。
 3年前の死の恐怖に飲み込まれないよう、あわててさっき回転していたときのゆだねるような気持ちにほんのすこし持っていった。するとすぐに内側のあたたかい生きている感触のようなものがもどってきて、外側もなにか空気の層のようなあたたかいものに包まれる感じになった。言葉にするなら“だいじょうぶ。だいじょうぶ。”となにか自分以外のものに支えられているような感覚だった。
 ひとことで言えば“安心感”のようなものにくるまれる感じ。自分だけではない感じ。その“安心感”とともに、冬眠の熊のように消耗を減らすことに集中しようと思った。

 リュックには大事なものばかり(それも人から預かってきたものとか)あったが、この際あきらめた。この身ひとつ持って帰れればきっと許してもらえるだろう。大事なものとはこれも縁だったのだ・・。と気持ちの負担をひとつ減らした。
 けれどもそれらはガイドのKさんの超人的・献身的努力によって手元にもどってきた。Kさんはとっさに事故を防ごうとハンドルもつかんだらしい。事故直後、エンジン音がしていて(危ない・・。)と思ったが動けなかった。エンジンはKさんが切ってくれた。冷静かつ的確な処置だった。
 あの症状で事故のブレーキ痕まで確認したとあとで知って舌を巻いた。

 Fさんが急斜面を登って助けを呼んでくれた。
 おかげで思ったより早く通りすがりの人々がたくさん下りてきて、力強い大声で叫びながらわたしたちをひとりづつ救い出してくれた。
 Iさんを抱き上げて斜面を登っていった人は、ひときわ目立って陣頭指揮をしていた人で、少しおなかの出た中年のメキシカンだったが、彼の胆の座った自信に満ちた懸命な行動は見ていたわたしを大きく力づけた。
「アユーダメ!アユーダメ!」と叫んでいるように聞こえた。
 たしかそれは「おれが助けてやる!」とかそういう意味じゃなかったか・・とこんなときにすっかり忘れていたスペイン語の意味を“感じて”わたしは強いインパクトを受けた。
 わたしの番がきて、はじめはふたりがかりで運んでくれようとしたが、斜面が急で運びにくく、そのうちのひとりがひとりで引き受けてがんばって運んでくれた。若そうなその人はあまり大柄ではなかったのだが、それこそ火事場の馬鹿力でブルブルふるえながらも落とさずに上まで上げてくれた。
「グラシアス・・。」といしか言えないことがもどかしいほどだった。そのひと言に万感をこめた。
 道路にあげられて、彼が横にしようとしてくれてはじめて「う・・腰だ・・。」と気がついた。横になることは出来なかった。ひざを抱えてそのままの姿勢でいるしかなかった。
 
 それにしても血小板が通常より少ないという持病を持つわたしには、特によりによって一番起きてほしくないパターンのこと(病院が近くにない場所で事故にあい、負傷したということ)が起きた。まさか、ほんとに起きるとは・・という弱気な想いがちらっと浮かんだ。おっと、今を乗り切ることだけに集中していればなんとかなる、からだのためにも意気消沈しないことだと打ち消して顔を上げた。
 そこにはなんの花だかわからないが白い花がかたまりになって群れてたくさん咲いていて、わたしたちを見下ろしていた。遠いメキシコだったが空は空だった。
 トニナの階段を登ったように、先も後も見ないで信じてこの一瞬一瞬を一段づつ登って行こうと思った。

 ほんとうに有り難いことにたくさんの人々がわたしたちを助けてくれた。
 わたしのそばにいた金髪の女性になにかできることはないかと英語できかれて、荷物が手元になかったわたしは「水が飲みたい。」というと、背負っていたリュックから水を出して飲ませてくれようとした。
 すると中年の女性がそれを止めた。その人はあとできいたがちょうど通りかかった女医さんらしく、どうも医学的見地から水を飲むのを止めたらしかった。
 なにくれとなく気遣ってくれて、ショックを受けているわたしたちの気分をやわらげるなにかを、手につけてそのにおいをかがせてくれた。
 おなかの出た中年のメキシカンも、そのあともずいぶん遅くまで残っていろいろ気遣ってくれた。ほんとにこの人の存在は心強かった。
 もちろん野次馬もいたらしい。火事場のどろぼうもいたかもしれない。
 けれども大多数がなんの義理もないのにただ通りすがっただけの縁で汗をかき、こころで寄り添い、わたしたちを支えてくれたのだ。事故直後には我も我もと崖下まで下りてきてくれた。
 そして、見ず知らずのひとを人間であるだけで深く信頼を寄せる自分もそこにいた。

“VIVA ! MEXICO ! VIVA ! HUMANA ALMA(人間的なたましい)!!”

 事故は夕方に起きたので、日はとっぷりと暮れていった。
 一番近いオコシンゴ村から遠く離れたこの現場までは救急車を呼びに行くだけで1時間はかかるということだった。
 初めに運んでもらった地面は端の方で、日が暮れるとみんなと離れていると自分を支えにくいことに気づき、思い切って動いてみた。
「いててて・・。」なんとか3mくらい中腰で動き、Mさんのそばに座った。右の下方に落ちている車が目に入ってちょっと抵抗を感じたが、それ以上動く気にもなれなかったのでMさんとくっついて暖をとった。冷え込んできた。
 冷えは精神までも冷やしそうになってきて少々わたしはあせった。幸いどこからか毛布をもってきてくれた人がいて、わたしは立ち直った。
 リュックからカロリーメイトのようなものを出してとなりのMさんに出したが食欲がないようだった。無理もない。わたしはカロリーメイトをそばにいたFさんに渡した。自分もかじった。
 Fさんは「自分だけ軽傷で・・。」と落ち込んでいた。
 それは違うととっさに感じて言った。
「Fさんが無事でうれしいよ。きっとなにか役割があるんだよ・・。」
 なぐさめではなく本気でそう思っていた。全てのことが偶然ではないと思っている。それはひとことでは書き切れないが自分の今までの経験からそう思う。
 だからだれもかわいそうなひとはおらず、だれも自分をひけめに思う必要もないという強い想いを抱いている。自分に起きたことは全て意味がある。ほかと比べようもない祝福と重みをもって。
 
 景気づけにMさんに言った。
「童謡でもうたおっかー・・。」
 なぜかこの曲しか思いつかず、わたしは「なのは〜なばたけえに〜・・」と地味に歌い出した。Mさんは明るく、「暗い。」とつっこんだ。(たしかに。可笑しい)
 Mさんが歌い出した“上を向いて歩こう”に声を合わせた。ひととおり歌い終わって別の曲も歌いたいと思ったが、これまたなぜか“われは海の子”しか思いつかず、
(こんな山の中には似合わないな〜・・。)と貧しいレパートリーは終わった。
(今度(?)はちゃんと元気の出る歌を仕入れておこう。)と気持ちを新たにした。

 どのくらい経ったのか、やっとなんだか騒がしい動きが出てきて、煌々とライトをつけたパトカーみたいな車が何台も到着した。こんなにこの灯りがたのもしく見えたことはない。
「お嬢様、お迎えです。」といわんばかりの高級そうなシートに身を埋めた。
 午後に降った雨で地面が濡れていて、座りつづけたおしりは冷え切っていた。今はとにかく清潔なあたたかいベッドにたどりつきたかった。
 長い長い距離を走りつづけ、やっと人家のあるところまでもどり、村に入った。ようやく車が四角い建物の前に止まり、どうやらこうやら病院に着いた。
 ひとの手を借りて、ゆっくり玄関から中へと歩いて入っていった。玄関のところで写真を撮られた。地元の記者のようだ。
 この時、歩いて病院に入ってここの医者に言われた人がいる。
「どうしてあなたたちは歩いて病院に入ってこれたんだ。」
 あとで聞いた話ではわたしたちの車が転落したカーブは事故の名所で、そこに落ちた車から歩いて病院に入れた者はほとんどいないそうだ。わたしたちもあと、ほんの少しずれていたら岩盤に激突して万事休すだったということだった。

 わたしはとりあえず入ってわりとすぐのところの小さな丸いイスに座らされた。
 その真ん前には手術台のような台があって、横たわる人の足がで〜んとあり、点滴を受けていて
(お〜い、こんなとこで手術するんですか〜!?精神衛生上よくないな〜・・。)
と思ったがつばを飲み込んで気を取り直した。せめてこのイスから早く移動したいと祈っていた。
 やっと案内されて、ストレッチャーの上に寝かされた。レントゲン服のようなのを渡されて、服を全部脱がされた。人が入れ代わり立ち代わりやってきて、名前を聞かれる。点滴を持って来た医師に「なんたらかんたらアレルギー?」と聞かれた。クスリのアレルギーを聞かれたようだった。
(う〜ん、血小板には強い鎮痛剤はよくないというけど、血小板てなんていうんだー?)
 スペイン語はもちろん、英語でもわからない。知恵をしぼり、ジェスチャー、図解、考えられる限りの方法で伝えようとしたが、医療スタッフが集まってくるばかりで、皆いわんとしていることは通じないようだった。
 なんのための点滴かきくと、「痛みのため」という。お互いに困って笑っちゃったりしながら、そうだ、血小板という単語だけでもガイドさんにきければ、と思い、
「ミスターK?」というと、合点顔でドクターはどこかへ行った。
 連れて来てくれたのはFさんだった。
「英語で血小板てなんていうのかな〜?」と英語のできるFさんにきいたが、そんな専門用語フツウの人に分かるはずもなく、Fさんは状況の外堀から攻めて一生懸命通訳してくれた。感謝、感謝。
 結局医療スタッフには手術はしないよね?(手術はできるがわかってやってもらわないと・・)ということは伝わり、わたしにも大丈夫だ、と伝えられちょっとホッとしたが、点滴はされることになった。
 血小板さんのためなら痛みはがまんできると思ったのだがそれ以上説明できなかった。なので奥の手で「この点滴をすると気分がわるくなるから止めてちょうだい。」と片言英語でいうと、インド人のようなドクターはやっといたわるような顔をして止めてくれた。このドクターは以心伝心こちらの意図をすっと汲んでくれて安心感を与えてくれ、“名医”だ、と思った。
 けれどもこの点滴は別の医師によって再開され、それからしばらく看護婦さんとも攻防があったが、ついにわたしも観念して、死ぬこたないだろ、どうせやるなら“歓迎!鎮痛剤様!!”と気持ち良くやった方がからだにいいかも・・と自分をナットクさせた。
 さぞやみなさん困ったろうなあ・・。オコシンゴ病院のブラックリストにのったことと思う。日本人初!?『血小板』という単語くらい調べていけばよかったと思う。
 チラッとは思ったのだかが、エンギでもないと調べなかった。2月には5万あったのでちょっと安心したのもあった。
 しかし、この鎮痛剤で減ったろうなと思っていた血小板の数値は、どういうわけか帰国後の検査で14万!!に一時的にどっか〜んとはねあがり、日本のドクターに驚かれた。
 検査でひっかからないのは20万以上だが、14万なんてほとんど正常値みたいなもので、10万台が10年続けば完治ということになる。今後のためにも
「いったいなにがよかったんですかね〜?」ときいても、
「鎮痛剤は血小板には禁忌だし、う〜ん、メキシコの点滴がよかったのかね〜?」
 先生もあきれはてて冗談しか言えなかった。

 しかし、わたしはこの検査結果をきいた時、とりはだが立った。と、同時にどこか合点がいっていた。
 シュタイナーという人が書いた本に、血液の病気というのは、アイデンティティーにかかわっているとしたためてあり、どこかなるほどと思えてとても印象に残っていたのだが、そのことに関連した現象のように思えた。
 なんでまたこんなに頑張ってまでマヤに来たかったのか、というひとつのしるしのように思えた。
 アイデンティティーにかかわっているとすると、今回でパッとハイめでたしではなくやはり一生ものなのだが、(信号としてセンサーとしてわたしが必要とする限りは)わたしはこの旅で大きなヒントを得たような気がしている。
 自分の中のかすかなしずかなささやきに忠実に行動すること。
 そして、陰も陽も必ず意味があってぐるぐる現れるので、その両方を貫いて存在する自分のありかを見失わないこと。もちろんむつかしいけれど、なにかがはやぶさのようにひゅんとそばをかすめたような気がしている。
 瞬間、インスピレーションのようにキラッと差し込んだ光のようなもの。
 その一瞬を体験するための大きな旅だったようなそんな感じ。
 それがわたしのアイデンティティーに深くかかわっているようなのだ。
 これをどのように生かしていくかはゆだねるよりない。そのときそのときにきっとわかる。・・かな・・たぶんね。

 病院はごったがえしていてなかなか次の動きはなかった。他のツアーメンバーのうち、3人は他の病院へ搬送されたらしかった。中のひとり、ストレッチャーに乗せられたTさんに、車椅子に乗ったKさんが通訳するのをわたしは耳にした。
「打ちどころがわるいので、ここでは十分な検査ができないので別の病院に搬送します。」
 その後、病院に落ち着いたのは朝だったとあとで聞いて、その間を耐え抜いたTさんたちの忍耐に言葉もない。

 ずっと廊下のここに置いとかれるんかしらんとストレッチャーの上でぽっかり思いつつ、そういえば晩ごはん食べていないなあ・・とぼんやり思っていた。
 病院もだんだん静かになってきた頃、やっとストレッチャーは動き出した。ベッドがふたつある部屋に運び込まれ、ストレッチャーから移された。もうひとつはまだ空いていた。立ち去ろうとする白衣の男性が、ふと、床に落ちていたものを拾い上げた。
「あんたのクリスタルかい?」
「えっ?」っと耳を疑ったが、その人は小さな黒いガラス片をわたしに渡した。
 なんだってこの人は今、クリスタルだなんてこんなものをわたしに渡すのだ?
 わたしはむしょうにうれしくなって、
「あ〜、グラシア〜ス!!」と受け取った。色は黒いし、ガラスみたいだけど、これはわたしを励ましに来たクリスタルである、と断じてうれしがった。思ったもん勝ちである。寝なさいよ、というジェスチャーにうんうんとうなずいた。
 少し経ってもうひとり運ばれてきた。メガネがないのでよくわからなかったが、じーっと観察して見当をつけるときいた。
「もしかしてSさん?」
「うん。」
 ほっとした。仲間だ。よかった、同室だった。
 それから看護婦さんが何回も回診に来たりして眠れぬ夜を、Sさんとしゃべったりして過ごした。
 気がつくと外は雨で、どこまでもついていた、と思った。雨の中何時間も外にいたら別の具合のわるさにつながったろう。幸運としかいいようがない。
 この夜をトニナのそばで迎えるとは・・雨音をききながら感慨にふけった。
 が、どこからかにぎやかな音楽が聞こえてくるここは病院?
 お国柄というのは面白いものだ。
                                《7》へつづく

 
 
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by ben-chicchan | 2005-10-08 15:15 | 紀行文

GIFT《5:蓮》〜マヤ紀行2001〜

 山道をずいぶん行って気持ち悪くなった人もいたりしながら、トニナに近いオコシンゴ村に着いた。村っていうのでほんとに小さな、道も舗装されていないようなところかと思っていたらどっこい、車も人もたくさんで店もある。
 村の中心部には広場があって、面白いくらいきれいに刈り込まれた木にぐるりと囲まれていて、揃いの民族衣装を着た女性たちがたくさんいた。
 こんなところまではなかなか遠くて、あまり見るからに外国人という人種は来ないだろう、と感じさせられた。異邦人の団体御一行様。写真なんか撮って誤解されて袋だたきにあったのはたしか中南米のどこか。このへんがどうなのかは分からなかったが、あまりこれ見よがしにパシャパシャするのは控えた。
 車に酔って食欲のない人もいたが、昼食をとるため村の小さなレストランに入った。
 現地ガイドのKさんがメニューを説明してくれて、その中にチーズのトルティージャがあったので、わたしはそれとハーブティーにした。
 食欲旺盛の人はKさんおすすめの“ビフカツ”のようなものを頼んでいた。
 味見したがけっこうおいしかった。
 Kさんはそこで道のことを情報収集して運転手に確認させていた。
 今まではとんでもない道しかなかったのが、最近いい道ができたらしい。

 昼食をすませて出発。
 まったくものすごくいい道がつづき、素晴らしい景色がひろがった。ここはメキシコ?標高があるせいかまるでイギリスの田園地帯(行ったことないけど)といった緑の丘陵地帯だった。
 来る前はジャングルの中のスンゴイところかと勝手に想像していたのだが、そのイメージは完全に粉砕された。明るくひろびろと、なんて気持ちのいいところか!
 博物館の駐車場に車を入れた。この日は休日で入れなかった。
 この博物館も大都市にでもありそうなしゃれた綺麗な色を使った立派な建物で、さらにオドロク。
 なだらかな坂を、のんびりまわりの緑の丘を眺めながらトニナへと下っていった。トニナの発掘・修復にかかわった現地のマリオという陽気な初老のメキシカンがガイドに付いてくれた。マリオ、けっこうお酒ズキでからだもちょっとこわしたらしいが、懲りないようだ。メキシカン、て感じ。
 トイレのある小さな建物のところまでくると、遺跡の立体模型があってざっと説明してくれ、そこから一度下って、小さな沢を抜け、また登った。
 最初に出会ったのは球技場だった。こざっぱりときれいに整備されている。
 説明を聞きながらたたずんでいると、ふと、気がついた。
(なんだろう?この気持ちのいいあたたかい波動は・・?)
 説明からすると球技で勝ったチームの首がそこに捧げられ、だの、「え・・。」という内容もあるのだが、不思議なことにやわらかいあたたかいものに包まれてふわっと心地いい。これまでのマヤの遺跡の中では、わたしはダントツ“いい感じ”がした。
 そこを登って遺跡の全容が見えてくると、わたしの中でわたしは叫んでいた。
「トニーナ、トニーナ、トニーナ!!(来たよ!)」

 雨がパラパラ降ってきた。あまり気にならなかったが、樹が生えている方へと自然と流れ、樹の下で雨宿りというかっこうになった。
 丁度わたしたちのルート上には2本並んでいて、1本の方はまだ青年といった若々しい樹だった。幹の下の方は色が白く(色を塗ったのか?自然なのか?)上の方は竹のように緑色で、独特の存在感があった。
 
 そしてそして、その樹がなんと!ほんものののセイバの樹!だったのだ!

 TVで見たとはいえ、涙で曇っていて見目形はさだかではなかったので、初めてのような新鮮な出会いだった。きけば中は空洞だという。なるほど、天と地を結ぶのにピッタリである。抱きついてちょっとの間そばにいたが、若木で雨はしのげないのでセイバの樹のとなりのよく繁っている樹の下にみんなで立った。わたしは思う存分セイバを眺めた。
 ずうっといい感じがし続けている。期待が高まる。
 その時、思いついて、ここトニナで感じられるだけ感じられるようにアグア・スールで手に入れたピラミッド型ローズクオーツを手首に巻き付けて“準備”した。なんとなく、出来ることはささいなことでもしておきたかった。
 雨が小降りになったので歩き出した。

 平たい石積みの大きな遺跡だ。遠くから見るとただの石の壁のように見えるのが、ごくそばまで寄ると階段状になっていた。その一段目を登って右手の方に遺跡の中に入れる入り口がある。マリオの案内で入っていった。
 中は暗く、しかし、ちゃんと電灯が点されていて、ぐるっと廻れるようになっていた。ひとまわりした出口付近まで来ると、マリオが今度は電灯を消してひとりで廻ってみせてくれた。死者を弔った場所だと聞いたあとのことなので、わたしはマリオの陽気さを尊敬した。でも彼はただ面白がっているのではなく、この遺跡にたっぷり愛情を持っているのが感じられた。
 日本からのガイドのYさんが、ふいに「わたしはここにいなければ・・。」と言い出して、マリオにここで15分瞑想の時間をもらえないかとことわると、マリオは快く了承してくれた。15分経ったら灯を点す。それが合図だった。
 わたしは正直いうとアタマでは恐かったのだけれど、どういうわけかあたたかい波動を感じて踏み止まった。そして、マヤン・オラクル(マヤの神託)のわたしへのメッセージを思い出していた。
『今まで恐くて行ったことのないところに行きなさい。』ここのことだったのだろうか・・?外へ出るわけにはいかなかった。胆を据えるしかなかった。
 そこでわたしたちはぐるりと輪になって座り込み、手をつないだ。
 Yさんが誘導してくれた。
 ケツアルコアトル(マヤの重要な神)が後ろにいると言ってもらってわたしはなんだかゆだねるような気持ちになった。
 すると、まず蓮の花のつぼみのようなシルエットが10本ぐらい並んでいるイメージを感じた。それからXという形。そして、日本庭園によくあるような十三重の石塔のようなもののてっぺんに金の珠が輝いているのが一瞬浮かび、
『完全でないということが完全である』というインスピレーションを得た。
 それはわたしを大いに勇気づけた。じたばたと完全でないわたしも完全なのか、大いなるところからみれば・・。
 進化する過程の渾沌は完璧なスケジュールということ?それを体験するために今ここにいる?大きな感謝に包まれた。
  マヤの大きさを感じた。ここで悪人だろうがどんな人間だろうが手厚く弔ったという。弔う人々の一心さ、敬虔さを感じて、恐さというのは徐々に融けてゆくようだった。生と死を越えた大きなものを、マヤの人々はたましいで理解していたのだろうか。

 わたしは蓮の花がそのときは何をイメージしたものかわからなかったが、あとで思った。あの蓮の花はわたしたちのことではなかったろうかと・・。
 蓮はドロの中で聖なる花を咲かせるときいた。今わたしたちは蓮の花のつぼみ。そういう意味だとしたら・・。ものすごく大きな意味になる。
 意識を通常モードにもどす誘導をしてもらって瞑想が終了した丁度その時、まるでハイ終わり、とでもいうようにピッタリに電灯が点された。
「えっ!?」と思わずパッと目を開いてしまった。なんだこの1秒も狂いのないタイミングは・・。
 それはこの瞑想が流れの中で重要なものだったのだろうと暗示させるものだった。
 今回のツアーの大きな意味をここトニナが、そしてこの瞑想が担っているように感じたのはわたしだけなのだろうか・・?もちろん全てのマヤ遺跡が重要な意味がある。けれどもこの時わたしたちに大きくシンクロした大事な場所のような気がする。

 外に出るとマリオがいたので
「ムーチャスグラシアス!(本当にありがとう!)」と声をかけた。
「アブラエスパニョール?(スペイン語しゃべれんのかい?)」
というようなことをおそらく言ったので、
「ウンポコ・・。(すこ〜し・・。)」と人差し指と親指で小さな幅をつくった。

 そこから7段だかある“標高”の高い遺跡の上方にむけて登り始める。
 一番初めにどーんという感じで迎えてくれたのは“エツナブ”に良く似た巨大なシンボルマークを一面に浮き上がらせた壁面だった。このシンボルはどうやらここトニナの重要なものらしかった。それが一目でわかるように見上げるような大きさにつくってある。
 Kさんの説明によれば、Xという字を階段状にギザギザに表しているこの形は雷を表しているということだった。
 それにしてもこれはほとんどエツナブだった。エツナブはわたしはマヤン・オラクルで知ったのだが、マヤ語の意味は“ナイフ、火打石”、象徴するものは“鏡、刀”そしてその性質は“時間を超越していること、差別、清澄さ、鏡の間、武士の魂、真実の剣、影に立ち向かうこと、そして、パラドックスの統合”
 そしてエツナブが調和するための叡智とは“不調和”
 今回のツアーに生年月日はまったく違うのにエツナブの人がふたりもいて、初めっからおや〜っ?と思ってはいた。
 そして、わたしにとってはエツナブは“心の核”“わたしを支える霊的存在”と出たことがある。
 もしかして、ここはエツナブの城?

 その時は気づかなかったけれど、あとになっておやおや〜?と思ったのだった。
 そしてこのシンボルがエツナブと少し違うのは、Xという字の真ん中に太い柱のような1本の縦のラインがあることだった。
 帰国してからわりとすぐ図書館で借りた本の中で、「真ん中を貫く縦のラインが“天と地を結ぶ”ということを表している」というフレーズに出会い、ぎょっとした。
 あれがそうなのかはわからないが、そうとってもまんざらわるくない、と感じたからだ。

 神官が住んでたむろしていたといわれるところ、神に捧げる踊りではないかというレリーフ。また、ここの人々の世界観を表わす巨大なレリーフ。それらはそんな昔のものとは思えないほどきれいに残されていた。
 振り返ると素晴らしい緑の丘陵が眼下に広がり、ここは昔から作物がとれて豊かな土地だったというのがうなずけた。夢の中で見るような理想郷のような景色だった。
 そんな景色を望むところに位の高い神官が埋葬されているらしいというところが何気なくある。立ち去りかけたとき、思わず振り返って敬意を表して手を合わせた。
 奴隷といわれているうつくしいレリーフは、マリオはそうじゃないんじゃないかと思っていると告げた。たしかにそのレリーフのうつくしい造形にはどこか尊敬の念のような愛情のようなものが感じられて、マリオの言う通りかもしれないと素直に感じた。
 そこでレリーフを見ていたら別の観光客が上がってきて、マリオは
「アリバ!!(上へ)」と笑いながら叫んだ。
 げっ!?ここをのぼるんかいな?その最上段の階段は、階段と呼べる代物ではなく、急な“壁”だった。壁がちょびっとでこぼこしているという雰囲気で、まさかあ、ここは登らないよな、と勝手に安心していた。
 とほほほ、やはり登るのであった。
 ままよ!上も下も見ないで、ブジを信じてひたすら登った。
 どうやら一番上の小さな展望台のようなところに辿り着いた。
 ひゃー!眺めの良さと達成感で充実感に満たされた!
 トニナを味わった!ありがとー!

 このわたしがこの急な階段をてっぺんまで登れたのはひとつの小さな奇跡だった。
 この3年前に救急車に乗った直後は寝返りもおそろしくてうてなかったのに。3分も歩けなかったのに。
 人は“回復”する。それを自分で拒否しなければ、時はやさしい。
 人生で動いて何かをすることを、一度あきらめてそれを受け入れた。けれどもその時見つめ続けた部屋の壁に差し込む窓の光は、決して絶望の色をしていなかった。むしろそれはいたわるようなおだやかなもので、わたしに
(それならば動かないで出来ることをすればいい。人生は変わらない。ただ、やり方を少し変えるだけだ。)と思わせてくれた。
 肉体を使って人生を楽しむことがわたしの人生からたとえ去ったとしても、そこにはそれ以上の奥深く広大な世界がなんと!ひらけているということに、自分で本当に驚いた。そのことを知らしめるための“厄年”だったようで、そんな恩恵に預かれるなら厄年もわるくない。
 人生は基本的にゆかいだ。しんどいこともほんとだが、だけどどこかに笑えることはいつもある。それはどうしたってほんとうのことだ。
 そういえばあとで気づいたが、マヤへとやって来たこの年も、ある説ではわたしの厄年だった。(含笑)

 さて、“展望台”から見下ろすと、すぐ下の高みに現地の人がふたりと犬が一匹座っていた。空から差し込む光をバックに印象的な平和な光景をつくっていて思わずシャッターを切った。
 ここは遺跡で、もちろん生きている遺跡だが、“現在の”血の通う自分の仲間がこの遺跡に信頼と愛情を寄せて、この遺跡とともに暮らしているのを見るのはいいものだった。
 あたたかい血の通った人間的なマリオの存在も、わたしのこころに今も灯を点し続けている。
 そこから立ち去ろうとするときの空は神話的だった。雲間から後光のような光がもれ、敬虔な気持ちになった。

 遺跡を登っているときは止んでいた雨が、屋根のあるところまで来ると一気にダーッと降り出した。天に感謝。
 そうして、至福感にひたりながら、トニナの訪問を終えた。
 オコシンゴまで乗っけてくれとマリオが乗り込んできた。座席はいっぱいなので後ろのスペースに“荷物”と化して。どこまでも陽気で茶目っ気のあるマリオになごまされた。
“ムーチャス、ムーチャスグラシアス!!(ほんとにありがとう!神のご加護を!)”
                                《6》へつづく


 
 
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by ben-chicchan | 2005-10-07 16:36 | 紀行文

GIFT《4:石》〜マヤ紀行2001〜

 翌朝も早く、トニナというこれまた普通のツアーでは行かないような遺跡へ行く。
 寸暇があったのでわたしはホテルのショップで美しい色のカードを買った。
マヤの有名な絵や、マヤのシャーマンの絵などを独特の原色でアレンジしたもので、職業柄、色に反応してしまうわたしは色の印象でババッと5枚ほど選んで購入すると、みんなのいるロビーのソファーに座り込んだ。
 カードを見せながら、ふとウスマシンタで拾った石を取り出してみて(あれ?)と思った。きのうは気づかなかったが、石の表面にひとの横顔のような模様がある。
 鉤鼻っぽい鼻を持つその横顔は、今買ったようなマヤの絵に出てくるマヤ人のようだった。「見て見て。」とその石を他の人に見せながら、ふつふつとうれしくなった。“ご縁”を感じた。

 車に乗り込んでまずはトニナに行く途中にあるアグア・スールという滝へ向かう。そこも昔から聖地といわれてきたところで、水が美しいらしい。けっこう楽しみだった。
 トニナに行く丁度中間ぐらいのところにあるそこは、今回うまい具合にスルリとスケジュールに組み込まれた、やはり“ご縁”のあるところらしかった。滝というだけでも充分魅かれる。
 スペイン語ではアグアは水、スールは“青”を意味している。うつくしい名前。
 そこに着いた。トニナが控えているのであまり時間はなかったが、滝のそばまで行き、写真を撮った。少し、いつもより濁りがあるらしいが、鍾乳石のような黄色いつるつるの大岩を“青い”水がいきおいよく滑っていて、明るい色合いの滝。飛沫があがってマイナスイオン!といわんばかりの清々しさ。
 大きな滝の脇に小さな滝があり、奥へ登っていく道があった。
 道沿いにはおみやげものやさんが並んでいる。その道を行き、小さい方の滝の流れをたどっていくと小さな建物があり、アクセサリーを売っていた。
 “水”の記念がまた欲しいような気がしてきた。初めに手にしたトルコ石のような色の涙型のネックレスは、いまひとつピンと来ず、もう一度テーブルの上をざっと探してローズクオーツのピラミッド型を手にした。ローズクオーツはわたしのお守りのような石でもう持っていたのだが、形に魅かれた。
 30メキシコドルということは約300円(!?)あらまー。

 そしていよいよ本日のメイン、トニナ!!に向けてまた山道を走り出した。
 車中でさっき買った石の話になると、Hさんが思い出したように言い出した。
「ウスマシンタ河でまんまるの白い石を拾ったんだけど、ウラに傷があったからもどしたのよね。そしたら次の瞬間なくなっていた。あれは不思議だった。」
「へー。」と聞きながら、Fさんがわたしが拾った石に横顔のようなものがあったことをちらっと言ったので、わたしはその石を取り出してもう一度Fさんに渡した。
 わたしのとなりにはHさんが座っていて、Fさんは斜め前に座っていたので、Hさんの目の前をその石は通過することになった。そしてFさんから帰ってくるその石は当然のようにHさんの手に渡った。
「あっ!これだ!この石!わたしが拾ったの!このキズ・・。」
「えーっ!!?」ビックリ仰天、大笑い!
 次の瞬間消えたワケだ。わたしが拾っちゃったから。確かに傷を見て返したのは分かった。同じこと思ったから。
 しかし、あんなにそれこそ星の数ほど河原には石なんてあるのに、よりによって同じ石を手にするとは!なんだか愉快だ。

 ツアー行程の途中から耳の調子が悪くなっていたIさんは、アグア・スールで手に入れた石を車中でずっと耳に当てていたら、耳が通って聞こえるようになった。
 わたしも石で具合のわるさが治ったことがある。
 わたしは胸でいろいろ受けてしまうたちで、受け過ぎたな、という時にローズクオーツを胸に当てたことがある。すると不思議に、かるく、ラクになったことがあった。
 吸い取ってくれるような、融かしてくれるような、引き受けてくれるような。
 そもそもはヒマラヤ水晶のペンダント・トップを初めて手に入れた時になんとなくからだのあちこちに当てていたら、胸のど真ん中にピタっとくる感じがして、その位置に合わせてチェーンの長さを注文し直したのが始まり。
 なぜ分かったかというと、背中まで抜けるような爽快感があったからだ。気功をしている時のような、いや、それ以上の口中のさわやかさも感じ、なんだこれはと思った。ミネラルっぽい味もした。その時から、アクセサリーをする位置というのには意味があり、昔の人はただ飾るためだけにしていたのではないのではないだろうかという風に感じるようになった。
 自分のスキのあるところ、出入り口というか、(チャクラだとかツボだとか言われているいるところ?)そこからよけいなものを入れないように。もしくは補ってサポートしてくれるように石を身につけたのではないだろうか?
 そして、その時の自分にとっていいもの(必要なもの)と、そうでないものとは、自分なりにだが感じる。簡単なはなし、よいものはあたたかく広がる感じで心地いい。もしくは清々しい清涼感がある。そうでないものはつまって重くなる。不快である。
 ・・・からだで感じる感覚にこころを澄ますのはおもしろい。
 けれどもとても静かで微妙なものなので、こころを騒がしくしたり、忙しくしているとおもしろいことにてきめんに感じなくなってくる。
 水みたいだ。撹拌されると底の砂が舞い上がりみえなくなるが、しばらく静かにしているとうわずみは澄んでくる。これは誰にでもある原始感覚で特別なものではないらしい。
                                《5》へつづく

 
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by ben-chicchan | 2005-10-05 16:24 | 紀行文

GIFT《3:柱》〜マヤ紀行2001〜

 思わぬ充実感に満たされながら、またワイルド・カーにて道をもどる。
 そしてワゴン車に乗り換えて今度はヤシュチランへ行く船着き場へ。
 船着き場(といってもただの河原)で乗る舟を待つ間、河のそばで思い思いに時間をつぶした。わたしは河の流れに手を浸し、きれいな石がないものかと足元を見下ろした。ハッとするまんまるい石がパッと目に入り、手にとった。
 ちょっとキズはあるが、ほぼ丸い形と少し透明感のある白色、ほどよい大きさが気に入ってウスマシンタ河の記念にした。
 舟は天竜川下りのようなシンプルなもので、簡単な屋根はついているが1時間の船旅というのから想像していたものとは違っていた。しかし、河をなにより身近に感じられて、“水”に縁があると言われている者としては文句ない、文句ない。
 モーターですっとばす舟はけっこうな河風を切って少し寒いくらい。ぼーっと両岸の景色を眺めながら、
(やっぱり水、好きだなあ・・・)と感じていた。
 河の向こう岸はグアテマラ。メキシコまで来たんだなあとしみじみ思う。
 小1時間そうして舟に揺られて、いよいよヤシュチランに着いた。

 舟を降りてジャングルの中をだいぶ歩くのだろうかと来る前はちょっと心配していたが、船着き場からはそう遠くもなく、観光客もけっこういて思いのほかポピュラーな印象。はじめの遺跡の真っ暗闇の空間をぐるっと廻ってその向こうへ出た。
 きれいに整備された緑の広場。ここでも印象的な大木がいくつも柱のようにこの空間を支えている。
 競技場を見、説明を聞き、その右奥の急な石段が続く高くなっているところまで来て、ガイドのYさんが「きつい人はここで待っていてください。」というので、わたしは残ることにした。
 だが、ずいぶんしばらくひとりで広場でぼおっとした後、ふいに(やっぱり上に行ってみよう!)とひらめいて、みんなが登っていった石段を登り始めた。
 途中、左側にガードマン付きの小さな遺跡があるのでのぞいた。
 ガイドなしなのでなんの遺跡か分からなかったが、やわらかい印象の美しいレリーフがあって見愡れた。色がいい。あたたかい。なんとも素敵だ。好きだな、ここ、と思った。あとで聞いたはなしでは、ここはヤシュチランで重要な地位を占めるある高貴な女性が自分の指を切って血を捧げたという生臭いところらしかったが、彼女はそれを“犠牲”ととらえていなかったらしい。
 マヤには血なまぐさい生け贄の話が多いが、生と死を今よりもっと大きくとらえて分けていなかったようであるマヤ世界からすると、“犠牲”の観念は全く違ったものとなるらしい。球技で勝ったチームの主将が喜んでいのちを捧げるのもそれをよく表している。
 先入観なくわたしが気に入った暖色系のレリーフのある小部屋は、あかるく居心地のいい空間に感じられた。

 そこからはたしかに急斜面で、少し登っては休み、また登っては座り、とたらりたらりと登った。先が見えないのでどこまであるのか分からなかったが、行けるところまでと思って最後の階段をえいやっと越えるとそこがゴールだった。
 さっきからずいぶん時間がたったと思ったが、案外そう距離のなかったそこで、まだみんなは遺跡の説明を聞いていた。そのそばに座り込んで息を整えた。
 ようやく落ち着いた頃、まるで「じゃ、」とでもいうばかりのタイミングでヤシュチランのメインディッシュであるその遺跡の中に入ることになった。
 ちょっと驚いた。あれだけ時間差があればみんなが帰ってくるところに遭遇すると思っていたのに、なんだかクライマックスには間に合ったみたいで。
 相当時間をかけて説明があったようだ。でも、どうやらわたしにはこれで充分だったのだ。
 あわてなくとも、欲張らなくとも、『充分である。』と、この遺跡の主、トリジャガー王にささやかれているようだった。

 中に入ってそのトリジャガー王の像のそばにいったが、しかし特にわたしの感応はなかった。だが、そこを出て、その外に立つ鍾乳石のようなもので出来た柱は、ちょっと、おっ!と思って、思わずガイドのKさんに聞いた。「これはなんですか?」
 “天界と地界を結ぶ”というような説明だった。
 それはたとえようもないほど素晴らしいもので、王の神殿よりもむしろわたしはその“仕掛け”になんだかとみに魅かれた。その時仰いだ空を、今も覚えている。

 階段を下りだしてなごりに振り返ったときに、はじめて足に鳥肌のようなものが立った。わたしの足に鳥肌が立つのはあるバロメーターで、なにかわたしなりの“ほんもの”とか“真実”に触れたときである。“自分”で気がついていなくともビビンと響いている証拠。猫のしっぽのようなもの(?)だ。
 ここの遺跡の偉大さ、トリジャガー王の偉大さにおそまきながらやはり身震いしたのかもしれない。
 舟は帰る。ボナンパックで手に入れた“水”のブレスレットをしてヤシュチランに通ずる水の上を滑って行く。祝福されているようだった。なにに?
 マヤに。すべてに。
                                
                                《4》へつづく
 
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by ben-chicchan | 2005-10-03 16:18 | 紀行文

GIFT《2:樹》〜マヤ紀行2001〜

 翌日は他のツアーとキャラバンを組んでなかなか行けないボナンパックとヤシュチランという遺跡へ行く。ヤシュチランは舟でしか行けない遺跡で、ずいぶん凝ったツアーだ。
 車中から朝日を拝みながら、しばらく走ってようやく朝ごはんの食べられるローカルレストランに着いた。外の空気の中で、木のテーブルで食べるバイキング。小さいが気持ちのいい店。それがなかなかおいしくて、スクランブルエッグやフルーツの生ジュースなど、どれもごきげんだった。
 片づけに来てくれた10代くらいの現地の女の子は、それ以上に新鮮で純真なはにかんだいい笑顔を見せた。それはあとあとまで尾を引くハッとする笑顔だった。
 もう思い出せないくらい前にしか見たことがないような、曇りのないたましいがこぼれていた。
 
 そこからまたごんごん走ってボナンパックへ。そこはある部族が管理していて、彼等の車に乗り換える。普通の(というか日本ではあまり見かけないワイルドな)乗用車2台に分乗し、未舗装の道を砂ぼこりを巻き上げながら10分くらい行ってゲート。運転手が自分でそこを開けて中へ。そこからはすぐで、歩いていく。
 にわとりや七面鳥のような鳥がひなとともにのんびり歩き回り、小さな建物がいくつか建っているのどかな空間を抜けると、ただ切り開いて地面を平らにしたといったような細長い土地があった。丁度飛行機が着陸するのにいい大きさで、“飛行場”なのかもしれない。
 そこを横切ると左右に3mくらいの石のオベリスクが並んでいて、入り口らしいとわかる。入るとすぐにまるでマヤの壁画から抜け出たような女性や女の子たちがアクセサリーを広げて売っていた。
 何の気なしにのぞくと、小さなひもで出来たミサンガのようなブレスレットが目についた。遺跡に行くのだし、魔除けにブレスレットが欲しいと前から思っていたが、これまでちょうどいいのがなかった。記念にもなるしひとつ買うかと値段をきいた。
 その時、ふと、端の方に針金のようなものを細工したうずまき型のブレスレットがあるのに気がついた。ひもはやめてそれを手にした。邪魔にならない感じで気に入ってそっちにした。あとで同じツアーのHさんが、そのうずまきは“水”を意味していると教えてくれた。
 ますます気に入ってそれから寝る時もずっとしていた。

 ボナンパックはこじんまりとその先にひらけていた。
 入り口から続く道を抜けてわたしの目にまず飛び込んできたのは1本の大きな樹だった。その樹は印象的なつるんとした感じの茶色い木肌で、そんな樹は他になく、その空間でひときわ目立っていた。
 うつくしく天に向かってひらいている枝は気持ちよくすうっと伸びていて、わたしを一目でとりこにした。遺跡に来ているのにその樹ばかり目で追った。

 遺跡にとりつくと階段を少し登って壁画をのぞく。なかなかスゴイ壁画らしい。全部で4室。これ以上の傷みをくいとめるため、そこに入れるのは3人までと決まっていた。待っている間、振り返ってあの樹を見下ろした。つくづくほれぼれする。
 あの樹のおかげでここの空間はとてもあかるく気持ちのいい場所になっている。そんな気さえした。ここは小規模で壁画を見終えると階段を降りて戻り始めた。
 当然のように現地ガイドのKさんはまっすぐその樹に向かって歩いて行った。
 やはりいい樹らしい。みんなで群がって樹に触れる。
「セイバの樹だ。」とKさんが言ったと聞いて、わたしは細胞が沸いた。
 わたしがマヤに来ることになった大きな後押しのひとつとなったのが“セイバの樹”だったからだ。

 このツアーのことを知ったあと、TVでマヤの末裔の現在についてのドキュメンタリーがあるのに気がついて見ていた時のことだった。末裔達の厳しい歴史を目の当たりにする中で、マヤの町の中心には必ず1本のセイバの樹が植えられるとナレーションが入ってその映像が映った。
『天と地をつなぎ、町を守っている。』そんなような解説だった。
 見ていたわたしはみるみるうちに熱いものが込み上げ、ボーゼンとTVの前で涙流れるままその樹を見つめた。そのあとTVでなんと言っていたかは聞こえなかった。
 これはただの風景の一部といったような気休めのような表面上のシンボル・ツリーではない、と感じた。
 “ほんとうに”天と地をつないで町を包み込み、守っている。
 そのことがわたしのしんにガビンときて、熱いものが滂沱と流れ落ちてしまったのだ。嗚咽するように泣けてきた。じぶんでも不思議なくらい感じ、動じていた。
 その樹は神を通し、神を宿し、神そのものでもあるようだ。そしてそれはこのうえなく清浄で慈愛に満ちている。そのことに感応したのだろう。驚いた。こんな涙は経験したことがなかった。
 セイバの樹のそばに立ちたい、と想った。そんなことがあった。
 もっとも後日談としてその樹は実はセイバの樹ではなかったのだが、それに劣らず素晴らしい樹には違いなかった。
(ほんもののセイバの樹にはこののち出会うこととなる。写真は実際のセイバの樹。)
                                《3》へつづく
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by ben-chicchan | 2005-09-27 19:56 | 紀行文