空を歩く

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始まりの海

真夜中の河は涙を集めて流れている

岸辺に灯る摩天楼も
ほろびの予感
たっぷり含む

星の浮いている夜
夜鳴りが遠い

月のように太ったつめを切っていてきいた

海の服を着て、夜を泳ごう

あの河のゆきつくその先のその向こうは
黒々とひらける玄色の大洋
暗黒ではなく
迷宮ではない
その闇にマグマの緋色をはらんだ
はじまりとおわりのるつぼ
または歓喜

すべてすべてながれゆく
にくむもの
にくまれるもの
さげすむもの
さげすまれるもの

融け合う
あそこで

きのうでもあしたでもないところで
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by ben-chicchan | 2005-02-28 13:33 |

大和・みたまの水脈をたどる旅*4

 ここまで来て良かったなあという想いに満々と満たされながら、レンタカーをもどさねばならないのでそろそろ下界へ下る。ガソリンを入れたりしていたらちょうどいい案配に昼すぎになった。
 それから電車でふた駅の長谷寺に寄る。ここの観音様はあんぐりと見上げるような巨大さで現在の御本尊は1538年の作だが、そもそもは686年に道明上人に開かれ、727年に西国三十三所観音霊場の開祖である徳道上人がここに十一面観世音菩薩をお祀りした、そうだ。西国三十三所観音霊場第八番だが、根本霊場といわれている。つまりは観音信仰の根本霊場、ということか。
 
 暑かった。おまけにここは駅から一度下って、そして上ル。すきっぱらもあって、くた〜としながらどうにか目指していた門前の田中屋という店へ。三輪そうめんのにゅうめんとたけのこごはんとごま豆腐のセット。ウマイ!エネルギー補給してさらに長谷寺名物、昇りの回廊。その脇が牡丹園だったが、今年は桜に習って牡丹も早かったらしく、終わりかけていた。なごりの牡丹。
 
 長谷寺の魅力はずば抜けて大きい観音様もさることながら、本堂の舞台から広がる景色だろう。
 観音様自体は昇ってきて消耗するのと人が多いのとあって、あまりじっくりとしっとりと向き合える状況にはなかった。だが、舞台に出てその眺めを見下ろした時の感動といったら!
 そこは緑打ち寄せる湾のよう。それもこの時期の緑は上等だ。透き通るようなかえでの黄緑はさえずるようだし、常緑樹も生命の力強い加速度的な成長を内に秘めて、濃い緑色をしながらもさながら燃えあがる蒼い炎のようだ。そしてはるかに稜線。うつくしく埋まる瓦屋根。新緑の中ではひときわ輝き伸びる五重塔。
 なにもかもがこの世の極楽を醸し出している。
 初瀬へと参るいにしえの人々の想いが共有できるようで、しばし浄土に浸っていた。
 最後に大神神社がひかえているので、後ろ髪引かれながら舞台を降り、その長い門前を戻り始める。
 このくらいの登りに耐えられるようになった肉体に感謝。ここはここで大きなところなので、まるで朝の栃尾観音堂が昨日のことのようだ。ここ最近の旅は一日が二日にも三日にも感じられる。
 
 電車で桜井駅にもどって改札を出たところで、真ん前の『大神神社にはバスが便利』とかいう看板が目に飛び込んできた。「えっ?」電車で行くつもりだったわたしはあわてて時刻表を見た。15:40発。
「わっ!ちょうどいい!」
“お待ちしておりました。”といわんばかりにバスがそこに待っている。
 この旅の企画書がどこぞに通り、まるでいろいろとどちら様かが手配してくれたよう。ありがたくその“時の御縁”をいただいて奈良野の大御所、三輪明神の元へと運ばれていった。
 三度(みたび)訪れた大神神社。一度はまだ何も知らぬ20そこそこ。二度はメキシコへ行くことを決めるための極寒のサイクリング。そして今。時は刻まれてゆく。
 
 旅から帰って3日経った今顧みると、この大神神社は実はなんと今回のわたしにとって大きい存在だったことか。わたしにとってどういう存在の神かいまだに把握しきれていない。けだし、この言葉にならない大きさが、たぶんわたしにとっての三輪明神なのだろう。御加護いただき畏みて誠から感謝申し上げたき神である。
 参拝するわたしはなぜか日本武尊であった。尊は柱となって国土へ惑星(ほし)へと三輪明神の功徳をひろげようとなさった。三輪明神とどういうつながりで尊がそこに現れたのかはさだかではないが、この一連の行程の中で自然とそうなった。大和を愛する尊と神であるならば、そこに矛盾はないのかもしれない。
 そして“和”を唱えた聖徳太子。大和(やまと)、とは、大きな和、と書く。“大和し美し。”
 
 願わくは、生まれる前に決めてきた通りにこの生を生きられます様。
 一者から伸びるあらゆる手にすくわれながらあらゆる手とともにこの急流を大海へと流されてゆこう。
 今、これを書きながら「願わくは、」でにわかに胸の血管が詰まるようだった。
 「流されてゆこう」と書いた時にそれは溶けて流れた。
 人のからだは運命のメタファー。その声をきき、地図を読む。
 そうして旅をすればいいサ。ガイドブックももう要らない。

                                    
                           春風吹く 5月
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by ben-chicchan | 2005-02-28 00:14 | 紀行文

大和・みたまの水脈をたどる旅*3

 ひとつの宿題を終えて、さらに水脈の源流へと遡る。
 街道が交わる下市口のあたりでGW渋滞らしきものと出会うが、十字路を曲がるとそれは解消された。天の川流るる弁財天の地まで高度を上げていく。
 思ったより走りやすい道だった。迷ってたどりつけないこともあるとか、車ですれ違うのはぎりぎりのところがあるとか小耳にはさんでいて、山深い深山幽谷のようなところを想像していただけに、意外。ごくごくよくある明るい山道、だった。
 
 途中道がカーブするところで看板の文字が目に飛び込んできた。
『日本一古い水の神様』
「あっ!」と声をあげて車を止めてもらった。
 そこはちょっと気にはなっていた丹生川上神社下社。ただ、今回は天河というあたまが大きかったので、寄ることはあまり考えていなかったのだ。
車を降りてみて鳥居から望む本殿は、独特の様相をしていた。Kさんは言った。
「龍が昇っているみたい。」
 なるほどそうとってもいいような拝殿から本殿へと続く屋根。まるで背後の山に昇っている龍。そちらの方からまるで清流のように流れてくる気は、下界のちりあくたを流し去っていくようだった。
 実際に近づいてみるとその拝殿には上がることができるようになっていて、その奥に急勾配で本殿に続く階段がそそりたっている。なんというインパクト。本殿をいやがおうにも畏れ多く見上げることになる。
 わたしにとって水、というのは大きなキーポイントなのだが、この水の神(イザナギ・イザナミの子クラオカミの神)のお社はまるでその源泉と出会うような深い印象を刻む場所となった。
 水とつながりの深いわたしは、水の神、市杵島姫とご縁が深い。それは別名弁財天ともいわれることがある。というわけで天河へとやってきた、ということでもある。
 参拝しているとやはりここでもキラキラとしたものがまたたいた。
 思ってもいなかったが、なにかたましいの潤う忘れられないところとなった。

 天河はそこからすぐだった。GWで混み合う道の駅や、黒滝茶屋という土産物屋を過ぎて、長いトンネルをふたつ越すと天川村に着く。あっけらかんとからっとした暗さのない山里に入った。
(ここ?)ほっとするような、拍子抜けするような。
 とにかく14:00なので昼にする。決めていた“おおとり”というログハウスでしめじうどんを頼んだ。うどんは旨かった。おつゆは飲み干したいようなだしのきいた薄味で、入ったしめじはしめじの味がした。
 
 それからいよいよ天河弁財天へ。
 思いのほかフツウ。思いのほか観光地。村の鎮守といった構えに見える。
 たしかに気はつよいものを感じた。けれども本殿でのご参拝では大きなインパクトはなかった。
 ふたりともなんとなく消化不良のまま、来る前に信頼のおける人にもらっておいたアドバイスに従って、あらかじめただ名前だけ聞いておいた鎮魂殿というのに行く。
 社務所できいてみた。
「何を鎮魂されているのですか?」
 すると社務所のひとは
「そこの下の川が禊の場になっていて、おそらく自分の魂を鎮めるということだと思います。」と答えてくれた。にわかにむねの瞳が輝いてきたように想った。
(それは、とてもいい!)
 
 行ってみると、ここも思ったより明るく、何気ないところだった。
 けれども禊場のあるうつくしい流れにかかる橋を渡る時、尋常でない場の気を感じた。たしかにここは禊の場だ。普通の観光客は来ないだろう。誰もいなかった。
 石が敷き詰められた場に立って、拝殿に向かって参拝した。あとでもう一回見た地図によると、この鎮魂殿の後ろの高倉山というのは水晶でできているらしい。それが御神体なのかもしれなかった。だからここが禊の場になったのだろうか?
 拝んでいるとまぶたの裏でゆっくりとうずが回転しだした。はじめは右回り、そして左回りに回転を変え、そしてまた右回り、最後にまた左回りしてうずは消えた。そしてまたキラキラと星のような光がまたたいた。
 最中に鳥の声がしつづけた。行ったり来たりと、行ってしまわないで旋回している。拝み終わって見上げるとすぐ上の木の枝にとまってさえずりつづけている。不思議な感じがした。しばらくそこに立ってその場を味わっていたが、鳥が別の木に移動したので呼ばれるようにそっちへ行ってそこの石に座ってしばらくぼうっとした。
 ここはたしかにどこよりもなにか浄化されるような充電されるようなところだった。
「ここに来るために天河に来たんだね。」ふたりしてうなずきあった。
「ここがなければ、来た意味がわからなかったね。」

 翌朝、まずは宿のすぐそばの栃尾観音堂というところに寄る。ここは知らなかったのだが円空仏が納められていて、大谷屋という宿のおかみさんによると開いていて見られるようだった。
 こじんまりした観音堂、そっと扉を押すと開いた。おお!ほんとに真近で見られる!ガラスで隔てられてはいるが、とてもパーソナルな空間で観音様のお茶の間に上がらせていただいているようだ。般若心経の真言だけ唱えさせていただいて、あとはつくづくお顔を眺めさせていただいた。
 
 笑い顔。ほっぺたがふっくりと笑んでいて、知らず知らずこちらも笑みが浮かんでくる。何か悩み事があったとしても、くっくっくと笑われて、赤面してそれも溶けてしまうような、とてもかろやかでふところの深い明るい笑顔だ。
 弁財天も宿のおかみさんのように笑っている。
 金剛童子は水に洗われたように品よくまろく、護法神像はそういうタッチだけではない深みと激しさも表現されていた。
 これらは円空の激しい求道の果てに天から落ちてきた果実なのだろう。衆生から一歩引いた仏像の多い中、この観世音はこちらへ歩み寄る。三十三通りに衆生に近しく変化してあらゆる衆生を救いたいという観音のこころ、そのままが表現されているようだった。
 暗さ、激しさを突き抜けた円空の成就を感じる。しみた。
 観音堂を出ると、空をはばむ山の緑は屏風を立てたように迫ってくる。うつくしい。ここにもワカモノはいて、家族と何か作業をしていた。この山とともに生きてきた日々、生きていく日々。わたしにはない人生。うらやましいようないとおしいような新鮮なようなほろ苦いような、そんな山椒のようなアクセントを感じた。

 きのう天河弁財天のところから独特の枝ぶりの目を引く大木が見えた。案内によると樹齢1300年のいちょうらしく、寄ることにした。今日もいい天気だ。天気予報によると夜にはくずれてくるようだが、いい日ざしが午前中のきれいな光を届けていた。
 大木は素晴らしかった。見上げるとちゃんと小さないちょうのかたちをした若葉が大樹の老成した幹には不釣り合いのようでいて、いとおしくまぶしい。
 帰りかけて弁財天の鳥居を目にしたら急に寄ろうという気が湧いた。朝の光と気の中での参拝はまた違ったものもある。鳥居に近づくと昨日よりもその気は強く感じた。
「鎮魂殿に行ってきたしねえ。」と顔を見合わせる。
 階段を昇り切る頃、ご祈祷の音がしてきた。小走りに御前へと罷り出る。ひとりの男性がご祈祷を受けているところで、有り難くご相伴させていただく。そのあまりのうつくしい祝詞の声音にスイッチが入る。
 合掌して立っている足元から細い小さな白い蛇が立ち昇ってくるようだ。ゆらゆらと。まるで海の中の海蛇のように宙を。
 自分もすこし。自分のまわりの人々、そして世界へ。届け届け、この捧げもの(ご祈祷)が。自分は拡声器(中継機)になったつもりで、このご祈祷を通そうと想った。
 そしてなんと、神職さんはのたまう。「般若心経〜・・。」独特の祝詞風に聞き覚えの有るお経が奏でられていった。ぞくぞくう〜。涙みたいのがきらきらと自分の細胞に湧いてくる。トリハダもの。3度ほどもそれは繰り返された。
 今、とても近しいものとなっている般若心経。今回は気がつけば観音菩薩の旅でもある。救世観音、栃尾観音、長谷観音。聖徳太子は救世観音の生まれ変わりともされている。同行二人というが、それはわたしたちには今、観音様との同行二人かもしれない。まさか天河弁財天で般若心経を聞くとは・・・。じーんと内に反響を覚えながらこの邂逅に感謝した。

To be continued・・・
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by ben-chicchan | 2005-02-28 00:06 | 紀行文

大和・みたまの水脈をたどる旅*2

 16:00に法隆寺駅に着いた。そこから歩いて法隆寺は20分。夢殿はさらにその一番右の奥の方だ。そこに今日の宿、大黒屋がある。昔から文人墨客が泊まったことで有名で、その窓からは夢殿の屋根が見えるということだった。思ったより距離があるその道を荷物を抱えてたどる。
 
 夢殿が見えてきた。行列まではいかないがやはりGWらしく人影が見える。ひとまず荷物を置きたくて、まっすぐ宿へ向かった。現在の夢殿の入り口は小さな門だけれど、塀を廻り込むと立派な正門のような開かずの門があり、その前はフェンスに囲まれて誰も入れない野原になっていた。そしてその正門の前にその宿はあった。
 昔の風情はなくなっているが、立地としてはやはり申し分ない宿だった。そしてそれは部屋に案内されてさらに思い知る。
 魂消た!その二階の部屋からはフェンスが見えないのでまるで夢殿の敷地の中に建っているような錯覚を覚える。これ以上ない景色が窓の外にひろがっている。カンドウこの上ない。
 宿に着いてこれほどの感動を覚えたことはかつてあったろうか。宿が古い民宿風であろうが、お風呂が狭かろうが、そんなことはどうでもよい。法隆寺に来るならここに泊まるしかない。
 
 荷物をほどいて夕刻の散歩に出た。夢殿は閉まってしまったが、周辺の町並みはこころの触毛を心地よくなぜる5月の風のようだった。夢殿から法隆寺に続く広々とした参道のような道は、まっさらな生成りの麻のような清潔感があって、電線のない空は正月のようにおだやかで底抜けにひろく明るかった。こういう空は時空を超えてしまう。今と未来といにしえがよりあわされていっぺんにここに出現する。しみてくるそのひろやかな空気を気のからだいっぱいに深呼吸した。
 それにしてもなによりも法隆寺の宝珠(こころ)である救世観音のおひざ元に一夜を過ごせるなんて、夢のようだ。翌日拝観して気がついたのだが、Kさんとゆっくりと語り合っていたその晩、救世観音はこちら側を向いてあらせられたのだった。そのことはそれだけでこころに何かが落ちる。

 朝になって、寝床で「おはよう。」を交わしてそれでもまどろんでいると、夢殿の方から一頭のいのししが歩いてくる印象がした。それは大きすぎず小さすぎず、背中には一列黒い毛が生えていて全体は茶色で横腹に白い斑点がある。いのししなのにあまり野性的な感じは受けなかった。ゆっくりと大きく蛇行しながらこっちへ向かってくる。真近まで来たように想った時目が覚めた。
 
 朝食をいただいて、8時からの開門に間に合うよう宿を出る。まだ人は他にひと組くらいだった。ちょうど門前に着いた時にきいいとその門は開かれた。一番に入ったのはわたしたちだった。
 券をもらうのももどかしく、足早に救世観音の扉へと向かう。恋い焦がれたお方にやっとお会いするような何年来の夢の実現。
 救世観音は想った通り深々と、繊細にリアルにしっとりとそこにおわす。これは、観音像ということを超えている。その名前を忘れてしまうような圧倒的なただただ深い存在感のもの、としかいいようがない。
 今想うと、そこには底知れぬ果てのない洞くつがひらけていたようでもある。洞くつといっても暗くも狭くもない。むしろ無限にひろい宇宙のようなものだ。観音像すら消えてしまっているような。一度拝観して夢殿を降り、屋根に輝くうつくしい宝珠を眺めてその場の空気を呼吸した。そして人がいなくなった夢殿にもう一度昇り、また救世観音に向き合った。
 その時覚えた感情というのは自分でも少し意外なものだった。救世観音像が、聖徳太子そのものにリアルに感じられ、そしてそれに相対する自分は兄を慕う弟の感情になっていたのだ。そういう感情になることは予想だにしていなかった。来米皇子の影響だろうか。
 来てよかったな。ほんとうによかったな、としんから想った。

 宿を引き払うと今度はJRで桜井に向かった。そこからレンタカーを借りて御所(ごせ)の日本武尊陵に寄りつつ、天河に向かう。
 たいへん分かりやすい道ですいすいと走る。GWなのに人があまり行かないところばかりすきまをぬって訪れているのであまり渋滞知らず。と思ったら日本武尊陵のごく近くで珍しく少々車が詰まった。
 前方には日本武尊陵が背にしている国見山がもう見えている。名前がいい。このあたりの景色も、なんだかここに眠るならそれはいいかもしれないと思わせるような穏やかな緑あふれる光景だった。
 
 日本武尊陵は小さな看板が出ていたがその入り口が分からなかった。ぐるりと一度坂を下りると遠くに看板を見つけてそこまで行ってそこに車を止めた。確かに「日本武尊御陵→」とかいてある。
 そこからあぜ道のような小花咲き乱れる小道をゆくと、そこで道は消えてしまった。Kさんがめざとく向こうに石の柵のようなものを見つける。そこへ行く道、というのはない。けもの道のようなところを草を踏み分け進むことになった。相変わらず蜘蛛にへっぴり腰になるワタシ。クモの巣を払うKさんが10人力の四天王のように見えた。
 
 たどりついてみると、整備された道はどうも反対側に入り口があったようで、わたしたちが車を止めた看板を一瞬うらむ。だがそれもすぐ忘れて第3番目の日本武尊陵にやって来たことに感慨を覚えた。
 三重県の能褒野陵は2000年の伊勢行の帰りにすでに寄っていた。その後、御陵は3つあることが分かったが、その全てにこんなに早く来れるとは思っていなかったのだ。
 能褒野で亡くなった日本武尊は八尋白智鳥(両手をひろげた状態が一尋)となって大和のここ琴引原(現在の御所市大字富田)の地に舞い降りる。そこに御陵をまたひとつ作り、そこから飛び立って最後に舞い降りた河内の古市にさらにあの巨大な御陵を作ったということになっている。そして古市から日本武尊は何処と知れず天翔けて天へと昇っていった。
 しかし、ここは来米皇子陵とはまた違うけれどももの寂しいもののある御陵だった。古市と違って忘れられている乾きを覚えた。いつもは水だけを手向けるのだが、あまりにも気の毒になって持っていた菓子も供え、そして奉納舞を納めた。
 
 史実というのはこの際あまり気にしない。大事なのはここが日本武尊の御陵であると定められて、皆の意識の中にそう生きていることで、そうなるとそこにそのエネルギーはよらせられるという事実があるからだ。
 日本武尊が実際にひとりの人間として肉体を持って生きていたかどうか、ということも実はどちらでもいいといえばいい。その意志やこころのようなものはたとえ誰かが思いついて作ったと言われてもそこにたしかな霊体がなければこれほどに今にいたるまで伝わりつづけることはないと思うからだ。
 肉体を持たずに存在している存在の方がジツはあまたあるワケで、それは肉体を持って生きる人々に大きな影響をおよぼしていたりする。彼の尊がこれだけ生き生きと日本人を引きつけ、今も大事にされているのは、尊の精神のエキス(霊体)とでもいうものが実際になければかなわない仕業だと思えるのだ。
 
 わたしには日本武尊は、日本人が日本に目をむけるために現れた『日本の意志』だとも思える。だから日本という名がついている。日本っていう大きな霊体(もしくはもっと大きな霊体)が関与しているかもしれない。ちっぽけなひとりの人間が思いつくものには様々なそういうものが関わっているのだと思う。
 日本武尊はものすごく広範囲に日本各地に足跡を残している。それを地図の上で目で追うだけでおのずと日本というのを意識させられる。
 そして大事なのは、日本人が大事な役割を果たすための大きな教訓を残していることだ。
 なぜなら、日本というのは想像以上にこれからの世界にとってのキーなのかもしれないからだ。
 そういう予感はトリハダをたたせる。
 倭姫が日本武尊に忠告したとされる言葉「慎め莫怠りそ(慎んでゆめゆめ怠るな)」
 それはそのまますべての日本人、もしくは地球人にむけた言葉でもある。
 
 日本武尊は思い上がったばっかりに海の神を怒らせていとしい弟橘姫命を失い、そしてやはり思い上がったばかりに山の神を怒らせて自分もいのちを落としてしまった。
 思い上がることは失うものは大きく、事を為せない。
 彼はこの大事なことを伝えるために古事記、日本書紀に現れた。
 それは大いなるところからの意志でなくてなんなのだろう。

 わたしはずっと日本武尊を気にしてきて、途中から聖徳太子もものすごく気になってきた。
 ある時、それが日本というもののある2本の柱であると感じたことがある。
  『和』と『武』
 それぞれが日本のそのパートを象徴していて、そのどちらも欠けてはいけないような。両輪。
 人には二面性があるように、穏やかで思慮深い面とパワフルで猛々しい面と。でも、それでもずっとふたりを別々にとらえてきた。しかし今回、何かがわたしの深くに響いた。『兄弟』というキーワード。
 たましいの役割でとらえるなら、そうであってもいいのかもしれない。

To be continued・・・
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by ben-chicchan | 2005-02-27 23:51 | 紀行文

大和・みたまの水脈をたどる旅*1

                              2004.4.30〜5.4

 2000年という「はじまりのうねりがはじまる」というそのご開帳の年に、ご他聞にもれずわたしのところにもやってきた信号が“日本武尊”だった。その時から、わたしの違った旅が始まった。
 筑波山から始まって伊勢、熱田、出雲、富士山、成田、松戸、東京、秩父、奈良、はてはメキシコまで、そのたったひとつのキーワードのためにまるであらかたのココロも金銭も時もあったような3年ばかり。そして、そのある集約地点のような今度の旅。
 それに行ってこれたことに今、大きな安堵を覚えている。長年の宿題をひとつ終えたような・・。いったいそれがなんなのか、うまく伝えるすべはまだ持たないかもしれないが、
 はじまりはじまり〜・・。

 ひとが、生まれる前にその肉体に宿ってどう生きようか、と決めてくる、という話がある。わたしは自分が決めてきたことが何か、よく分かった。この4年の旅の中で。
 だからここに来たし、このひとであることを選んでいる。
 なおかつ、それをすることを幼い頃からおそれていた。逃げられるものなら逃げようと、実際逃げつづけてきた。
「ああ、そうだった。また忘れていた。こんなにも自分が自分に呼び掛けているのに、すまなかった・・。」
 自分の、深くとるならば自分に対する切なる愛情が身にしみる。自分がこんなにも自分を本当の意味で愛していることを実感し出している。それと反比例して自分が自分をないがしろにしてきたことにむねつまる。
 ほんとうに自分を愛するっていうのは、自分が決めてきたことを自分にさせてやることだ。
 それは自分を慰めたり、自分が傷を負わないよう守ったりすることではなくて。
 
 大阪行き夜行バスでなんば駅に降り立って、電車で3つ。天王寺駅。
 ここには聖徳太子が建立した日本初の大寺、四天王寺がある。
 今、一者(あらゆる存在の根源的実在。一なる者。神仏。)への道を仏教から学ぶという御仏縁をいただいているが、その日本仏教の祖といえる聖徳太子は、わたしには日本武尊をめぐる旅の流れの中で強烈に印象に残ったお方だった。
 以前奈良に赴いた折、飛鳥の橘寺というところに寄ったことがある。そこは太子が生まれたところで、その跡に寺が建立され、そこで太子が天皇にお経を講議なさったという伝承が伝わっている。
 
 そこには太子が16才くらいの孝養像があった。本堂に入った時、その『空間』の“ひろさ”、“濃さ”にマッタク驚いたのだが、宇宙的でこれはいったいなんなんだろうと浸りながら奥に行くとそこがその空間の発信源だった。しんしんとしみてくるその気のただなかにいて、それがなんと表現できるものかに気がついた時にがくぜんと打たれた。ひとことでいうなら、それは『和』のエネルギーと表現するしかなかったのだ。
 宇宙的と思えたのはそれは実は太子のいう『和』の精神だった。
 この像を仏師がつくる時、聖徳太子を強く想いながらつくったことだろう。聖徳太子を想うということはイコールこの精神(エネルギー)を想うことでそこにはおのずとこの世界があらわれるよりない。刻まれることで、そのいのち(エネルギー)はそこに有り続ける。それとそこにそのよりしろがあることで、太子にゆかりの深いこの地にそのエネルギーはその発信元からさんさんと今も親密に降り続けるともいえるのかもしれない。その像は「和をもって貴しとなす」のまさに権化、だった。
 それが伝える『和』というのはただほんわかとしたふわふわしたものではなかった。
 それは意外にも強大なゆるぎないもので、圧倒的な強さ、だった。
 それは宇宙的な大きさ。
 まったくまったくオドロイタ。
 まさに21世紀型の21世紀にふさわしいマスターが日本には1400年前にすでに出現していた。
 法隆寺が日本最古の木造寺の遺産でありながらあんなに新しく宇宙的なのは『未来』の寺だからなのかもしれない、と橘寺に行って思ったのだ。だからそれからずっとわたしの中に聖徳太子は大きくいらせられる。

 四天王寺は暮らしの中に新しく息づいていた。
 あまり知識なく金堂に入って、建物の外見とギャップを感じさせられるようなその内部の深みに軽く新鮮なショックを受けた。なんという救世観音。このような端正なそれでいてしっくりと深い観音様はそうはいない。うっとりと拝んだ。三指に入る。そう思える観音様に出会えることの喜び。
 まわりを囲む壁面の絵画も観音様と釣り合ってよくお似合いだった。そうは古くなさそうな筆致だった。やはり端正で深い。まるで上等のビロードの上を歩いて、上等の赤ワインでもいただいたような余韻が漂った。
 講堂に入ると巨大な十一面観世音菩薩像。強い気をはなつ。
 そのとなりに阿弥陀如来像。これもはなはだ強い気をはなつ。わたしが今まで見た阿弥陀様の中ではよいお顔をされている。あとでこの像が大仏師の松下朋琳・宗琳親子作と知ってあらためて感心した。
時間がおしているのでもどる。途中あまりの暑さに「冷やしあめ」というのを飲む。思いのほかさっぱりと生姜風味で、暑さや疲れを払ってくれた。

 次に向かうのは古市の日本武尊陵。近鉄で20分ほど。昼になっていた。
 通りすがりの中華料理店で腹ごしらえしてから歩きだした。道端の石塔に示されたいい感じの石畳の横道に入る。気持ちのいい小道。古墳の多いここらあたりは地図や表示が整備されて町起こしされている。
 新緑のかたまりが見えてきた。まるで3Dのようにこちらに迫ってくる迫力のある生命力あふるる緑。日本武尊陵である。大きな堀に囲まれて、三重県の能褒野(のぼの)陵よりもさらに立派な様子だ。
 
 お堀を廻り込んで、ぐるっと回り道して鳥居のある拝所に向かう途中、地元の祭りの山車に出会った。まだ新しい木の色をした大変凝ったつくりの山車で、若衆が取り巻いていた。
 このあたりは『麻』さんと『塩野』さんの表札ばかり。古くから根づいた代々の家の多いところなんだろう。歴史を感じさせられる。
 拝所に着いて帽子をとると万感こめて参拝した。
 秩父の今宮神社の御神木を触らせていただいた時のような、きらきらとした光がいくつかまたたいた。もう少し交信していたかったが後ろに人の足音を聞いてしりぞいた。
 声がした。「好きやねえ(あんたも)。」
 30代くらいの目の大きな恰幅のいい男性と、その人に“師匠”と呼ばれる60代くらいの関西弁の男性が笑っていた。同好の士の気配を感じてこちらも笑った。
 その30代の男性は自分の子供に武尊(たける)と名付けるくらいの古代史好きらしく、同じく歴史マニアの“師匠”と歴史ドライブにきたそうだ。
 大和の方へ行く予定、らしいがあまり計画的でない歴史行で、日本武尊陵に寄ったのも武尊のパパが急に車の中で思いついて寄ったとのことだった。なのでわたしたちの行く叡福寺まで車で送ってくれることになった。
 
 直前のTVで古市の御陵を見て急きょここも予定に入れたのだが、その番組では日本武尊は聖徳太子の弟の来米皇子がモデルであるという説を出していて、それにはわたしは説明はしにくいがすとんと来るものを感じていた。来米皇子の御陵もこのあたりらしいがそこまでは調べてこなかった。「来米皇子陵はこのへんですか?」とちょっと口にしてみると、ふたりは喜んで連れて行ってくれた。
 実は内心、この大事な行程によけいなことを入れたかとふたりの同行に若干のほろ苦さを感じていたのだが、この来米皇子陵に来てそれは払拭された。
 そこはキラキラとした美しい日本武尊陵とは打って変わってどんよりと停滞した寂し気なところだった。
「あ、」と別の意味で打たれて、同行したKさんとこころをこめて参拝させていただいた。終わるとそこはこころなしかかろやかにあたまをもたげるような空間に変化していた。感動があった。
「ここへ来るために出会ったんだね。」Kさんとうなずきあった。
 それから本来は隣の駅からバスで行くところの聖徳太子の御廟のある叡福寺に向かう。やはり時間がおしてきていたので実際助かる。

 車で着いた叡福寺は、想像していた通りのところだった。
 ここは何かをお願いするところではなく、何かをすることを決めた人がその覚悟を報告しにくるところだとどこかで知った。だからこそ来たのだが、着いてみてまたしても後悔のあたまがよみがえってきた。
(やっぱり時間がかかっても楽をしないで気を散らさないで来るべきだった・・。)
 自分の意志の弱さを逆にまざまざとさらしにきたようだった。 連れてきてくれたふたりには申し訳ないという罪悪感もほろ苦く感じながら、前へ進む。
 高野山の弘法大師の御廟を訪うた時のような厳粛な空気を感じた。
 足が前に出ないような強い気。
 参拝した時に何を報告したのか実は今よく覚えていない。
 ただ、その後しばらくたって何か感じた。
 あのふたりは参拝のさわりになどならず、むしろやはり意味ある他生の縁だったのだ、と。聖徳太子はそういうことを咎めるのではなく、もっと違うわたしの深みをまっすぐに見ておられる。未来をみておられる。
 そういうかすかな感触が、自分の内面の“和”というような深みに向かって小石を投げられたように波紋のようにかすかにさざなみを立てて響き、
そしてそれはやがて鎮まっていった。
 このお寺は他の寺とは違っていた。いってみれば寺の中の寺。
 ベスト・オブ・テラ。キング・オブ・テラ。
 仏縁が出来てそれが深まってゆくなら一度は訪れたい場所である。

To be continued・・・
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by ben-chicchan | 2005-02-25 23:34 | 紀行文

Summer weeds & winter trees

 気がついたらおなかがすいたので、チチュは思いきり鳴いた。
 そうしたらその大きく開けた口にだれかがやわらかくておいしいものを入れてくれた。ずっとチチュをあたためていてくれたふたりだった。そうして交代でおなかが落ち着くものを運んでくれた。
 ふたりがチチュを呼ぶとき「チチュ」というので、チチュは自分がチチュなんだとわかった。
 チチュのほかにそこにはチチュとおなじくらいの大きさのがふたりいた。
 ひとりは「チュ」で、もうひとりは「チュチュ」。
 チチュが初めて目をひらいた時、世界はまぶしくてチチュはくらくらした。ようやく少し慣れて目を細めてみると、チチュのいるところから下の方は一面みどり色だった。
 それは風がくるたびに光り、ざわざわととてもやすらぐ音をたてた。
 あの、あったかくて大きなふたりの胸の音のように、チチュはその音にうっとりとした。
 目が慣れてくると、青い青い空間に夢のような白いかたまりが浮いているのが見えてきた。それは刻々と姿を変え、一時も同じ形をしていなかった。
 チチュがそこにそうしている時、ひとつもたいくつでないのはそのせいだ。
 青いと思っていると、その空間はみるみる色を変えにわかに暗くなり、白かったやわらかそうなあのかたまりはどす黒い湿った重たいものになり、たちまち上の方から透き通った滴が落ちてくる。
 頭の上から時折ぽつんと自分にあたってははじけるそれも、チチュには冷たくてきれいで不思議で驚かされる。
 なんてところだろう!
 なんてたいくつしないところだろう!
 気がついたらここにいた。
 このきらめいてながれていく透明なもののように、始まりがどこだかわからないところから降ってきたのだろうか?チチュも。
 そんな風にはことばにはならないが、そんなようなこころで半分閉じかかった目で遠い
ところをぼんやりみつめていた。
 うつくしくはあるが、ふくふくした羽根をすべっていく水滴は生まれて間もないチチュたちのささやかなぬくもりをぬぐいさろうともする。
 それに対抗するようにわずかなともしびを消すまいとするかのように小さなからだは知らず知らず小刻みにふるえ始めた。内側からいのちを発電するかのようなささやかな営みを尽しながらけなげにじっと耐える。
 毛玉のようなみっつの小さなかたまりが身を寄せあってふるえているところへ、やっと待ち望んだ大きなふたりが帰ってきた。
 いつもの「おみやげ」を口いっぱいにほうばってふたりのおなかの羽毛の下におさまってしばらくすると、ふるえはとまり、大きいふたりのぬくもりはやがてしんからチチュたちをあたためていった。
 そうして吸い込まれるように生まれる前のどこかへとチチュは眠り込んでいった。

 風がふいている。ほおをなでる風はひそやかでやさしい。
 あたたかい日だ。
 たくさんの声がきこえる。
 チチッチッチッ。リュリールリルリル。
 ヒュイーヨッ。 ヒュイーヨッ。
 ヨロコビのこもった声だ。
 青一色のあの空間が澄み切って白いかたまりが光っている。
 世界はあかるくて、すがやかだ。すべてのものがほほえんでいるようだ。
 チチュもワケもなくうれしくて羽根をふくらませた。すると地肌に風が通ってますますうれしくなってブルブルッと身震いした。
 風がチチュたちの上の緑色の重なりあうひさしをずらすごとにキラリッキラリッとまばゆい光が目にまぶしい。
 緑色一面にみえたものが一枚一枚別々に風にそよいでいるのに気がついた。 
 そしておもてとうらと別々のいろをしていてひるがえると光るのがすばらしかった。

 To be continued・・・
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by ben-chicchan | 2005-02-25 22:37 | story

マゼランの空

電線の向こう
甍のかなた

タイフーンの残した
マゼランの空

成層圏のような
金の味がして
どこでもないここは
何番地抜け落ちる

惑星の子

呼ぶ声がする
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by ben-chicchan | 2005-02-10 18:23 |

Great light

Once upon a time, there was a great light.
One day there came a big bang to it,
which bare numerous children of darkness and those of light
Promises are theirs to return to the mother light someday
Against the lights, the children of darkness gave a fight
And one another they did ignite
Darkness launched a rocket
and sent everyone back to the mother light

Thank you darkness.
Thank you light.
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by ben-chicchan | 2005-02-09 22:00 |

月にきく


わたしだったら
月にききます

そのとりはそういって目を閉じました。

どうしたら世界はしあわせになりますか?
ときいてみたのです

南天のような目を閉じたまま
とりはいいました
    
いちど
しずかになってきいてごらんなさい

月の光がきけたなら
どこにふしあわせがうまれるでしょう

なんだかわからないけれど
しんとしました

とりは月のように気高く
りんとりこうでした
   
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by ben-chicchan | 2005-02-09 21:38 |

守り手

りん
てぃん

ひかりが降る

いとおしげに天をささえる樹木の柱からこぼれおちて

闇に慣れたひとの目を
いたわるように天を覆う

白雪をまとう黒い木肌は
しっくりと深い色を宿す

なんの物音もない

ひかりがこぼれる

そのただ、りんと、しんとした色

あそこにあるあのひかりに、手をのばしてみるのだけれど
そっと、しずかに、
さえぎられた

「きみの瞳ではうけとめきれない。」
「もっと大きくなってからおいで。」

それだのにあふれておちるひかりの粒

はやくとどけといわんばかりに
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by ben-chicchan | 2005-02-09 19:22 |