空を歩く

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GIFT《6:転》〜マヤ紀行2001〜

 オコシンゴでマリオを降ろし、パレンケまでの帰路についた。
 行きしに車窓から見た市場は、すっかりきれいになにもなくなっていた。魅力的な村だった。いつかここに泊まりがけでくることは・・と一瞬夢想した。ないよな・・。
(と、思っていたのだが・・。)

 あとはまたあの山道を帰るだけ。昼は軽めだったし、食べていない人もいるし、みんな疲れて眠ったり、ただ揺られていこうという態勢だった。わたしもぼーっとしていたように思う。途中寝ていたかもしれない。よく覚えていない。
 とにかくずいぶん経ってからだった。
 
 突然の絶叫に目を見開かされた。
 ガガン!という振動とともに目の前の景色が回転し始めた。不思議な光景だった。車内は電気がついているように明るかった。
 とにかく回転するのだ。
(あーっやったか!これが事故ってやつか!わたしたちが!?)
 と思いながら、同時に
(とにかく力を抜いて転がりなさい・・。)
 というインスピレーションを感じた。
 他にすることもないので無意識に1回、2回、3回と数えて
(まだかいな〜、もうそろそろかんべんして・・。)と思った頃、ぐしゃっという感じに衝撃とともに車はつぶれてようやっと止まった。
 その衝撃で顔面を打ってメガネが鼻に当たってまっぷたつになり飛んでいった。
 運転手はまた叫んでいた。神様とかなんとか言っているようだった。
(運転手、はさまったのかな・・?いや、動き回っているみたいだ。こりゃ、誰かたいへんかもしれない・・。)
 けれども運転手の元気(?)な声に、助けてくれるかな?とちょっと期待を持った。
 が、彼の精神的ショックは想像を超えるものだったらしく、叫び回り、それが肉体的にもこたえたようでダメージは大きく、他の人間を救助するどころではなかったようだ。
 わたし自身もどこをどうしたのか、はさまっていないか、動けるのか、と我に返るとすこしひやっとした。その時が一番おそろしいといえばおそろしかったかもしれない。
 そう〜っと動いてみるとどうやら動けて、車のすきまから外へずり落ちるようにこぼれ落ちるように出ることが出来た。出たところでうずくまって動かないようにした。
 それこそ打ちどころが悪ければ動くことで助かるものが助からぬということもあるかもしれない。とにかく自分をなんとか支えなくては。それが病気持ちの人間に出来る最大の仕事だ、とまず思った。
 痛いところはどこなんだろうと思ったが、ショックのあまりよく分からず、でも顔に血がついていることには気づき、気分がわるくなりかけた。
 精神的なものが大きいことに自分でも気づいた。しかし、精神は肉体と直結しているので莫迦にできない。
 3年前の死の恐怖に飲み込まれないよう、あわててさっき回転していたときのゆだねるような気持ちにほんのすこし持っていった。するとすぐに内側のあたたかい生きている感触のようなものがもどってきて、外側もなにか空気の層のようなあたたかいものに包まれる感じになった。言葉にするなら“だいじょうぶ。だいじょうぶ。”となにか自分以外のものに支えられているような感覚だった。
 ひとことで言えば“安心感”のようなものにくるまれる感じ。自分だけではない感じ。その“安心感”とともに、冬眠の熊のように消耗を減らすことに集中しようと思った。

 リュックには大事なものばかり(それも人から預かってきたものとか)あったが、この際あきらめた。この身ひとつ持って帰れればきっと許してもらえるだろう。大事なものとはこれも縁だったのだ・・。と気持ちの負担をひとつ減らした。
 けれどもそれらはガイドのKさんの超人的・献身的努力によって手元にもどってきた。Kさんはとっさに事故を防ごうとハンドルもつかんだらしい。事故直後、エンジン音がしていて(危ない・・。)と思ったが動けなかった。エンジンはKさんが切ってくれた。冷静かつ的確な処置だった。
 あの症状で事故のブレーキ痕まで確認したとあとで知って舌を巻いた。

 Fさんが急斜面を登って助けを呼んでくれた。
 おかげで思ったより早く通りすがりの人々がたくさん下りてきて、力強い大声で叫びながらわたしたちをひとりづつ救い出してくれた。
 Iさんを抱き上げて斜面を登っていった人は、ひときわ目立って陣頭指揮をしていた人で、少しおなかの出た中年のメキシカンだったが、彼の胆の座った自信に満ちた懸命な行動は見ていたわたしを大きく力づけた。
「アユーダメ!アユーダメ!」と叫んでいるように聞こえた。
 たしかそれは「おれが助けてやる!」とかそういう意味じゃなかったか・・とこんなときにすっかり忘れていたスペイン語の意味を“感じて”わたしは強いインパクトを受けた。
 わたしの番がきて、はじめはふたりがかりで運んでくれようとしたが、斜面が急で運びにくく、そのうちのひとりがひとりで引き受けてがんばって運んでくれた。若そうなその人はあまり大柄ではなかったのだが、それこそ火事場の馬鹿力でブルブルふるえながらも落とさずに上まで上げてくれた。
「グラシアス・・。」といしか言えないことがもどかしいほどだった。そのひと言に万感をこめた。
 道路にあげられて、彼が横にしようとしてくれてはじめて「う・・腰だ・・。」と気がついた。横になることは出来なかった。ひざを抱えてそのままの姿勢でいるしかなかった。
 
 それにしても血小板が通常より少ないという持病を持つわたしには、特によりによって一番起きてほしくないパターンのこと(病院が近くにない場所で事故にあい、負傷したということ)が起きた。まさか、ほんとに起きるとは・・という弱気な想いがちらっと浮かんだ。おっと、今を乗り切ることだけに集中していればなんとかなる、からだのためにも意気消沈しないことだと打ち消して顔を上げた。
 そこにはなんの花だかわからないが白い花がかたまりになって群れてたくさん咲いていて、わたしたちを見下ろしていた。遠いメキシコだったが空は空だった。
 トニナの階段を登ったように、先も後も見ないで信じてこの一瞬一瞬を一段づつ登って行こうと思った。

 ほんとうに有り難いことにたくさんの人々がわたしたちを助けてくれた。
 わたしのそばにいた金髪の女性になにかできることはないかと英語できかれて、荷物が手元になかったわたしは「水が飲みたい。」というと、背負っていたリュックから水を出して飲ませてくれようとした。
 すると中年の女性がそれを止めた。その人はあとできいたがちょうど通りかかった女医さんらしく、どうも医学的見地から水を飲むのを止めたらしかった。
 なにくれとなく気遣ってくれて、ショックを受けているわたしたちの気分をやわらげるなにかを、手につけてそのにおいをかがせてくれた。
 おなかの出た中年のメキシカンも、そのあともずいぶん遅くまで残っていろいろ気遣ってくれた。ほんとにこの人の存在は心強かった。
 もちろん野次馬もいたらしい。火事場のどろぼうもいたかもしれない。
 けれども大多数がなんの義理もないのにただ通りすがっただけの縁で汗をかき、こころで寄り添い、わたしたちを支えてくれたのだ。事故直後には我も我もと崖下まで下りてきてくれた。
 そして、見ず知らずのひとを人間であるだけで深く信頼を寄せる自分もそこにいた。

“VIVA ! MEXICO ! VIVA ! HUMANA ALMA(人間的なたましい)!!”

 事故は夕方に起きたので、日はとっぷりと暮れていった。
 一番近いオコシンゴ村から遠く離れたこの現場までは救急車を呼びに行くだけで1時間はかかるということだった。
 初めに運んでもらった地面は端の方で、日が暮れるとみんなと離れていると自分を支えにくいことに気づき、思い切って動いてみた。
「いててて・・。」なんとか3mくらい中腰で動き、Mさんのそばに座った。右の下方に落ちている車が目に入ってちょっと抵抗を感じたが、それ以上動く気にもなれなかったのでMさんとくっついて暖をとった。冷え込んできた。
 冷えは精神までも冷やしそうになってきて少々わたしはあせった。幸いどこからか毛布をもってきてくれた人がいて、わたしは立ち直った。
 リュックからカロリーメイトのようなものを出してとなりのMさんに出したが食欲がないようだった。無理もない。わたしはカロリーメイトをそばにいたFさんに渡した。自分もかじった。
 Fさんは「自分だけ軽傷で・・。」と落ち込んでいた。
 それは違うととっさに感じて言った。
「Fさんが無事でうれしいよ。きっとなにか役割があるんだよ・・。」
 なぐさめではなく本気でそう思っていた。全てのことが偶然ではないと思っている。それはひとことでは書き切れないが自分の今までの経験からそう思う。
 だからだれもかわいそうなひとはおらず、だれも自分をひけめに思う必要もないという強い想いを抱いている。自分に起きたことは全て意味がある。ほかと比べようもない祝福と重みをもって。
 
 景気づけにMさんに言った。
「童謡でもうたおっかー・・。」
 なぜかこの曲しか思いつかず、わたしは「なのは〜なばたけえに〜・・」と地味に歌い出した。Mさんは明るく、「暗い。」とつっこんだ。(たしかに。可笑しい)
 Mさんが歌い出した“上を向いて歩こう”に声を合わせた。ひととおり歌い終わって別の曲も歌いたいと思ったが、これまたなぜか“われは海の子”しか思いつかず、
(こんな山の中には似合わないな〜・・。)と貧しいレパートリーは終わった。
(今度(?)はちゃんと元気の出る歌を仕入れておこう。)と気持ちを新たにした。

 どのくらい経ったのか、やっとなんだか騒がしい動きが出てきて、煌々とライトをつけたパトカーみたいな車が何台も到着した。こんなにこの灯りがたのもしく見えたことはない。
「お嬢様、お迎えです。」といわんばかりの高級そうなシートに身を埋めた。
 午後に降った雨で地面が濡れていて、座りつづけたおしりは冷え切っていた。今はとにかく清潔なあたたかいベッドにたどりつきたかった。
 長い長い距離を走りつづけ、やっと人家のあるところまでもどり、村に入った。ようやく車が四角い建物の前に止まり、どうやらこうやら病院に着いた。
 ひとの手を借りて、ゆっくり玄関から中へと歩いて入っていった。玄関のところで写真を撮られた。地元の記者のようだ。
 この時、歩いて病院に入ってここの医者に言われた人がいる。
「どうしてあなたたちは歩いて病院に入ってこれたんだ。」
 あとで聞いた話ではわたしたちの車が転落したカーブは事故の名所で、そこに落ちた車から歩いて病院に入れた者はほとんどいないそうだ。わたしたちもあと、ほんの少しずれていたら岩盤に激突して万事休すだったということだった。

 わたしはとりあえず入ってわりとすぐのところの小さな丸いイスに座らされた。
 その真ん前には手術台のような台があって、横たわる人の足がで〜んとあり、点滴を受けていて
(お〜い、こんなとこで手術するんですか〜!?精神衛生上よくないな〜・・。)
と思ったがつばを飲み込んで気を取り直した。せめてこのイスから早く移動したいと祈っていた。
 やっと案内されて、ストレッチャーの上に寝かされた。レントゲン服のようなのを渡されて、服を全部脱がされた。人が入れ代わり立ち代わりやってきて、名前を聞かれる。点滴を持って来た医師に「なんたらかんたらアレルギー?」と聞かれた。クスリのアレルギーを聞かれたようだった。
(う〜ん、血小板には強い鎮痛剤はよくないというけど、血小板てなんていうんだー?)
 スペイン語はもちろん、英語でもわからない。知恵をしぼり、ジェスチャー、図解、考えられる限りの方法で伝えようとしたが、医療スタッフが集まってくるばかりで、皆いわんとしていることは通じないようだった。
 なんのための点滴かきくと、「痛みのため」という。お互いに困って笑っちゃったりしながら、そうだ、血小板という単語だけでもガイドさんにきければ、と思い、
「ミスターK?」というと、合点顔でドクターはどこかへ行った。
 連れて来てくれたのはFさんだった。
「英語で血小板てなんていうのかな〜?」と英語のできるFさんにきいたが、そんな専門用語フツウの人に分かるはずもなく、Fさんは状況の外堀から攻めて一生懸命通訳してくれた。感謝、感謝。
 結局医療スタッフには手術はしないよね?(手術はできるがわかってやってもらわないと・・)ということは伝わり、わたしにも大丈夫だ、と伝えられちょっとホッとしたが、点滴はされることになった。
 血小板さんのためなら痛みはがまんできると思ったのだがそれ以上説明できなかった。なので奥の手で「この点滴をすると気分がわるくなるから止めてちょうだい。」と片言英語でいうと、インド人のようなドクターはやっといたわるような顔をして止めてくれた。このドクターは以心伝心こちらの意図をすっと汲んでくれて安心感を与えてくれ、“名医”だ、と思った。
 けれどもこの点滴は別の医師によって再開され、それからしばらく看護婦さんとも攻防があったが、ついにわたしも観念して、死ぬこたないだろ、どうせやるなら“歓迎!鎮痛剤様!!”と気持ち良くやった方がからだにいいかも・・と自分をナットクさせた。
 さぞやみなさん困ったろうなあ・・。オコシンゴ病院のブラックリストにのったことと思う。日本人初!?『血小板』という単語くらい調べていけばよかったと思う。
 チラッとは思ったのだかが、エンギでもないと調べなかった。2月には5万あったのでちょっと安心したのもあった。
 しかし、この鎮痛剤で減ったろうなと思っていた血小板の数値は、どういうわけか帰国後の検査で14万!!に一時的にどっか〜んとはねあがり、日本のドクターに驚かれた。
 検査でひっかからないのは20万以上だが、14万なんてほとんど正常値みたいなもので、10万台が10年続けば完治ということになる。今後のためにも
「いったいなにがよかったんですかね〜?」ときいても、
「鎮痛剤は血小板には禁忌だし、う〜ん、メキシコの点滴がよかったのかね〜?」
 先生もあきれはてて冗談しか言えなかった。

 しかし、わたしはこの検査結果をきいた時、とりはだが立った。と、同時にどこか合点がいっていた。
 シュタイナーという人が書いた本に、血液の病気というのは、アイデンティティーにかかわっているとしたためてあり、どこかなるほどと思えてとても印象に残っていたのだが、そのことに関連した現象のように思えた。
 なんでまたこんなに頑張ってまでマヤに来たかったのか、というひとつのしるしのように思えた。
 アイデンティティーにかかわっているとすると、今回でパッとハイめでたしではなくやはり一生ものなのだが、(信号としてセンサーとしてわたしが必要とする限りは)わたしはこの旅で大きなヒントを得たような気がしている。
 自分の中のかすかなしずかなささやきに忠実に行動すること。
 そして、陰も陽も必ず意味があってぐるぐる現れるので、その両方を貫いて存在する自分のありかを見失わないこと。もちろんむつかしいけれど、なにかがはやぶさのようにひゅんとそばをかすめたような気がしている。
 瞬間、インスピレーションのようにキラッと差し込んだ光のようなもの。
 その一瞬を体験するための大きな旅だったようなそんな感じ。
 それがわたしのアイデンティティーに深くかかわっているようなのだ。
 これをどのように生かしていくかはゆだねるよりない。そのときそのときにきっとわかる。・・かな・・たぶんね。

 病院はごったがえしていてなかなか次の動きはなかった。他のツアーメンバーのうち、3人は他の病院へ搬送されたらしかった。中のひとり、ストレッチャーに乗せられたTさんに、車椅子に乗ったKさんが通訳するのをわたしは耳にした。
「打ちどころがわるいので、ここでは十分な検査ができないので別の病院に搬送します。」
 その後、病院に落ち着いたのは朝だったとあとで聞いて、その間を耐え抜いたTさんたちの忍耐に言葉もない。

 ずっと廊下のここに置いとかれるんかしらんとストレッチャーの上でぽっかり思いつつ、そういえば晩ごはん食べていないなあ・・とぼんやり思っていた。
 病院もだんだん静かになってきた頃、やっとストレッチャーは動き出した。ベッドがふたつある部屋に運び込まれ、ストレッチャーから移された。もうひとつはまだ空いていた。立ち去ろうとする白衣の男性が、ふと、床に落ちていたものを拾い上げた。
「あんたのクリスタルかい?」
「えっ?」っと耳を疑ったが、その人は小さな黒いガラス片をわたしに渡した。
 なんだってこの人は今、クリスタルだなんてこんなものをわたしに渡すのだ?
 わたしはむしょうにうれしくなって、
「あ〜、グラシア〜ス!!」と受け取った。色は黒いし、ガラスみたいだけど、これはわたしを励ましに来たクリスタルである、と断じてうれしがった。思ったもん勝ちである。寝なさいよ、というジェスチャーにうんうんとうなずいた。
 少し経ってもうひとり運ばれてきた。メガネがないのでよくわからなかったが、じーっと観察して見当をつけるときいた。
「もしかしてSさん?」
「うん。」
 ほっとした。仲間だ。よかった、同室だった。
 それから看護婦さんが何回も回診に来たりして眠れぬ夜を、Sさんとしゃべったりして過ごした。
 気がつくと外は雨で、どこまでもついていた、と思った。雨の中何時間も外にいたら別の具合のわるさにつながったろう。幸運としかいいようがない。
 この夜をトニナのそばで迎えるとは・・雨音をききながら感慨にふけった。
 が、どこからかにぎやかな音楽が聞こえてくるここは病院?
 お国柄というのは面白いものだ。
                                《7》へつづく

 
 
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by ben-chicchan | 2005-10-08 15:15 | 紀行文

GIFT《5:蓮》〜マヤ紀行2001〜

 山道をずいぶん行って気持ち悪くなった人もいたりしながら、トニナに近いオコシンゴ村に着いた。村っていうのでほんとに小さな、道も舗装されていないようなところかと思っていたらどっこい、車も人もたくさんで店もある。
 村の中心部には広場があって、面白いくらいきれいに刈り込まれた木にぐるりと囲まれていて、揃いの民族衣装を着た女性たちがたくさんいた。
 こんなところまではなかなか遠くて、あまり見るからに外国人という人種は来ないだろう、と感じさせられた。異邦人の団体御一行様。写真なんか撮って誤解されて袋だたきにあったのはたしか中南米のどこか。このへんがどうなのかは分からなかったが、あまりこれ見よがしにパシャパシャするのは控えた。
 車に酔って食欲のない人もいたが、昼食をとるため村の小さなレストランに入った。
 現地ガイドのKさんがメニューを説明してくれて、その中にチーズのトルティージャがあったので、わたしはそれとハーブティーにした。
 食欲旺盛の人はKさんおすすめの“ビフカツ”のようなものを頼んでいた。
 味見したがけっこうおいしかった。
 Kさんはそこで道のことを情報収集して運転手に確認させていた。
 今まではとんでもない道しかなかったのが、最近いい道ができたらしい。

 昼食をすませて出発。
 まったくものすごくいい道がつづき、素晴らしい景色がひろがった。ここはメキシコ?標高があるせいかまるでイギリスの田園地帯(行ったことないけど)といった緑の丘陵地帯だった。
 来る前はジャングルの中のスンゴイところかと勝手に想像していたのだが、そのイメージは完全に粉砕された。明るくひろびろと、なんて気持ちのいいところか!
 博物館の駐車場に車を入れた。この日は休日で入れなかった。
 この博物館も大都市にでもありそうなしゃれた綺麗な色を使った立派な建物で、さらにオドロク。
 なだらかな坂を、のんびりまわりの緑の丘を眺めながらトニナへと下っていった。トニナの発掘・修復にかかわった現地のマリオという陽気な初老のメキシカンがガイドに付いてくれた。マリオ、けっこうお酒ズキでからだもちょっとこわしたらしいが、懲りないようだ。メキシカン、て感じ。
 トイレのある小さな建物のところまでくると、遺跡の立体模型があってざっと説明してくれ、そこから一度下って、小さな沢を抜け、また登った。
 最初に出会ったのは球技場だった。こざっぱりときれいに整備されている。
 説明を聞きながらたたずんでいると、ふと、気がついた。
(なんだろう?この気持ちのいいあたたかい波動は・・?)
 説明からすると球技で勝ったチームの首がそこに捧げられ、だの、「え・・。」という内容もあるのだが、不思議なことにやわらかいあたたかいものに包まれてふわっと心地いい。これまでのマヤの遺跡の中では、わたしはダントツ“いい感じ”がした。
 そこを登って遺跡の全容が見えてくると、わたしの中でわたしは叫んでいた。
「トニーナ、トニーナ、トニーナ!!(来たよ!)」

 雨がパラパラ降ってきた。あまり気にならなかったが、樹が生えている方へと自然と流れ、樹の下で雨宿りというかっこうになった。
 丁度わたしたちのルート上には2本並んでいて、1本の方はまだ青年といった若々しい樹だった。幹の下の方は色が白く(色を塗ったのか?自然なのか?)上の方は竹のように緑色で、独特の存在感があった。
 
 そしてそして、その樹がなんと!ほんものののセイバの樹!だったのだ!

 TVで見たとはいえ、涙で曇っていて見目形はさだかではなかったので、初めてのような新鮮な出会いだった。きけば中は空洞だという。なるほど、天と地を結ぶのにピッタリである。抱きついてちょっとの間そばにいたが、若木で雨はしのげないのでセイバの樹のとなりのよく繁っている樹の下にみんなで立った。わたしは思う存分セイバを眺めた。
 ずうっといい感じがし続けている。期待が高まる。
 その時、思いついて、ここトニナで感じられるだけ感じられるようにアグア・スールで手に入れたピラミッド型ローズクオーツを手首に巻き付けて“準備”した。なんとなく、出来ることはささいなことでもしておきたかった。
 雨が小降りになったので歩き出した。

 平たい石積みの大きな遺跡だ。遠くから見るとただの石の壁のように見えるのが、ごくそばまで寄ると階段状になっていた。その一段目を登って右手の方に遺跡の中に入れる入り口がある。マリオの案内で入っていった。
 中は暗く、しかし、ちゃんと電灯が点されていて、ぐるっと廻れるようになっていた。ひとまわりした出口付近まで来ると、マリオが今度は電灯を消してひとりで廻ってみせてくれた。死者を弔った場所だと聞いたあとのことなので、わたしはマリオの陽気さを尊敬した。でも彼はただ面白がっているのではなく、この遺跡にたっぷり愛情を持っているのが感じられた。
 日本からのガイドのYさんが、ふいに「わたしはここにいなければ・・。」と言い出して、マリオにここで15分瞑想の時間をもらえないかとことわると、マリオは快く了承してくれた。15分経ったら灯を点す。それが合図だった。
 わたしは正直いうとアタマでは恐かったのだけれど、どういうわけかあたたかい波動を感じて踏み止まった。そして、マヤン・オラクル(マヤの神託)のわたしへのメッセージを思い出していた。
『今まで恐くて行ったことのないところに行きなさい。』ここのことだったのだろうか・・?外へ出るわけにはいかなかった。胆を据えるしかなかった。
 そこでわたしたちはぐるりと輪になって座り込み、手をつないだ。
 Yさんが誘導してくれた。
 ケツアルコアトル(マヤの重要な神)が後ろにいると言ってもらってわたしはなんだかゆだねるような気持ちになった。
 すると、まず蓮の花のつぼみのようなシルエットが10本ぐらい並んでいるイメージを感じた。それからXという形。そして、日本庭園によくあるような十三重の石塔のようなもののてっぺんに金の珠が輝いているのが一瞬浮かび、
『完全でないということが完全である』というインスピレーションを得た。
 それはわたしを大いに勇気づけた。じたばたと完全でないわたしも完全なのか、大いなるところからみれば・・。
 進化する過程の渾沌は完璧なスケジュールということ?それを体験するために今ここにいる?大きな感謝に包まれた。
  マヤの大きさを感じた。ここで悪人だろうがどんな人間だろうが手厚く弔ったという。弔う人々の一心さ、敬虔さを感じて、恐さというのは徐々に融けてゆくようだった。生と死を越えた大きなものを、マヤの人々はたましいで理解していたのだろうか。

 わたしは蓮の花がそのときは何をイメージしたものかわからなかったが、あとで思った。あの蓮の花はわたしたちのことではなかったろうかと・・。
 蓮はドロの中で聖なる花を咲かせるときいた。今わたしたちは蓮の花のつぼみ。そういう意味だとしたら・・。ものすごく大きな意味になる。
 意識を通常モードにもどす誘導をしてもらって瞑想が終了した丁度その時、まるでハイ終わり、とでもいうようにピッタリに電灯が点された。
「えっ!?」と思わずパッと目を開いてしまった。なんだこの1秒も狂いのないタイミングは・・。
 それはこの瞑想が流れの中で重要なものだったのだろうと暗示させるものだった。
 今回のツアーの大きな意味をここトニナが、そしてこの瞑想が担っているように感じたのはわたしだけなのだろうか・・?もちろん全てのマヤ遺跡が重要な意味がある。けれどもこの時わたしたちに大きくシンクロした大事な場所のような気がする。

 外に出るとマリオがいたので
「ムーチャスグラシアス!(本当にありがとう!)」と声をかけた。
「アブラエスパニョール?(スペイン語しゃべれんのかい?)」
というようなことをおそらく言ったので、
「ウンポコ・・。(すこ〜し・・。)」と人差し指と親指で小さな幅をつくった。

 そこから7段だかある“標高”の高い遺跡の上方にむけて登り始める。
 一番初めにどーんという感じで迎えてくれたのは“エツナブ”に良く似た巨大なシンボルマークを一面に浮き上がらせた壁面だった。このシンボルはどうやらここトニナの重要なものらしかった。それが一目でわかるように見上げるような大きさにつくってある。
 Kさんの説明によれば、Xという字を階段状にギザギザに表しているこの形は雷を表しているということだった。
 それにしてもこれはほとんどエツナブだった。エツナブはわたしはマヤン・オラクルで知ったのだが、マヤ語の意味は“ナイフ、火打石”、象徴するものは“鏡、刀”そしてその性質は“時間を超越していること、差別、清澄さ、鏡の間、武士の魂、真実の剣、影に立ち向かうこと、そして、パラドックスの統合”
 そしてエツナブが調和するための叡智とは“不調和”
 今回のツアーに生年月日はまったく違うのにエツナブの人がふたりもいて、初めっからおや〜っ?と思ってはいた。
 そして、わたしにとってはエツナブは“心の核”“わたしを支える霊的存在”と出たことがある。
 もしかして、ここはエツナブの城?

 その時は気づかなかったけれど、あとになっておやおや〜?と思ったのだった。
 そしてこのシンボルがエツナブと少し違うのは、Xという字の真ん中に太い柱のような1本の縦のラインがあることだった。
 帰国してからわりとすぐ図書館で借りた本の中で、「真ん中を貫く縦のラインが“天と地を結ぶ”ということを表している」というフレーズに出会い、ぎょっとした。
 あれがそうなのかはわからないが、そうとってもまんざらわるくない、と感じたからだ。

 神官が住んでたむろしていたといわれるところ、神に捧げる踊りではないかというレリーフ。また、ここの人々の世界観を表わす巨大なレリーフ。それらはそんな昔のものとは思えないほどきれいに残されていた。
 振り返ると素晴らしい緑の丘陵が眼下に広がり、ここは昔から作物がとれて豊かな土地だったというのがうなずけた。夢の中で見るような理想郷のような景色だった。
 そんな景色を望むところに位の高い神官が埋葬されているらしいというところが何気なくある。立ち去りかけたとき、思わず振り返って敬意を表して手を合わせた。
 奴隷といわれているうつくしいレリーフは、マリオはそうじゃないんじゃないかと思っていると告げた。たしかにそのレリーフのうつくしい造形にはどこか尊敬の念のような愛情のようなものが感じられて、マリオの言う通りかもしれないと素直に感じた。
 そこでレリーフを見ていたら別の観光客が上がってきて、マリオは
「アリバ!!(上へ)」と笑いながら叫んだ。
 げっ!?ここをのぼるんかいな?その最上段の階段は、階段と呼べる代物ではなく、急な“壁”だった。壁がちょびっとでこぼこしているという雰囲気で、まさかあ、ここは登らないよな、と勝手に安心していた。
 とほほほ、やはり登るのであった。
 ままよ!上も下も見ないで、ブジを信じてひたすら登った。
 どうやら一番上の小さな展望台のようなところに辿り着いた。
 ひゃー!眺めの良さと達成感で充実感に満たされた!
 トニナを味わった!ありがとー!

 このわたしがこの急な階段をてっぺんまで登れたのはひとつの小さな奇跡だった。
 この3年前に救急車に乗った直後は寝返りもおそろしくてうてなかったのに。3分も歩けなかったのに。
 人は“回復”する。それを自分で拒否しなければ、時はやさしい。
 人生で動いて何かをすることを、一度あきらめてそれを受け入れた。けれどもその時見つめ続けた部屋の壁に差し込む窓の光は、決して絶望の色をしていなかった。むしろそれはいたわるようなおだやかなもので、わたしに
(それならば動かないで出来ることをすればいい。人生は変わらない。ただ、やり方を少し変えるだけだ。)と思わせてくれた。
 肉体を使って人生を楽しむことがわたしの人生からたとえ去ったとしても、そこにはそれ以上の奥深く広大な世界がなんと!ひらけているということに、自分で本当に驚いた。そのことを知らしめるための“厄年”だったようで、そんな恩恵に預かれるなら厄年もわるくない。
 人生は基本的にゆかいだ。しんどいこともほんとだが、だけどどこかに笑えることはいつもある。それはどうしたってほんとうのことだ。
 そういえばあとで気づいたが、マヤへとやって来たこの年も、ある説ではわたしの厄年だった。(含笑)

 さて、“展望台”から見下ろすと、すぐ下の高みに現地の人がふたりと犬が一匹座っていた。空から差し込む光をバックに印象的な平和な光景をつくっていて思わずシャッターを切った。
 ここは遺跡で、もちろん生きている遺跡だが、“現在の”血の通う自分の仲間がこの遺跡に信頼と愛情を寄せて、この遺跡とともに暮らしているのを見るのはいいものだった。
 あたたかい血の通った人間的なマリオの存在も、わたしのこころに今も灯を点し続けている。
 そこから立ち去ろうとするときの空は神話的だった。雲間から後光のような光がもれ、敬虔な気持ちになった。

 遺跡を登っているときは止んでいた雨が、屋根のあるところまで来ると一気にダーッと降り出した。天に感謝。
 そうして、至福感にひたりながら、トニナの訪問を終えた。
 オコシンゴまで乗っけてくれとマリオが乗り込んできた。座席はいっぱいなので後ろのスペースに“荷物”と化して。どこまでも陽気で茶目っ気のあるマリオになごまされた。
“ムーチャス、ムーチャスグラシアス!!(ほんとにありがとう!神のご加護を!)”
                                《6》へつづく


 
 
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by ben-chicchan | 2005-10-07 16:36 | 紀行文

GIFT《4:石》〜マヤ紀行2001〜

 翌朝も早く、トニナというこれまた普通のツアーでは行かないような遺跡へ行く。
 寸暇があったのでわたしはホテルのショップで美しい色のカードを買った。
マヤの有名な絵や、マヤのシャーマンの絵などを独特の原色でアレンジしたもので、職業柄、色に反応してしまうわたしは色の印象でババッと5枚ほど選んで購入すると、みんなのいるロビーのソファーに座り込んだ。
 カードを見せながら、ふとウスマシンタで拾った石を取り出してみて(あれ?)と思った。きのうは気づかなかったが、石の表面にひとの横顔のような模様がある。
 鉤鼻っぽい鼻を持つその横顔は、今買ったようなマヤの絵に出てくるマヤ人のようだった。「見て見て。」とその石を他の人に見せながら、ふつふつとうれしくなった。“ご縁”を感じた。

 車に乗り込んでまずはトニナに行く途中にあるアグア・スールという滝へ向かう。そこも昔から聖地といわれてきたところで、水が美しいらしい。けっこう楽しみだった。
 トニナに行く丁度中間ぐらいのところにあるそこは、今回うまい具合にスルリとスケジュールに組み込まれた、やはり“ご縁”のあるところらしかった。滝というだけでも充分魅かれる。
 スペイン語ではアグアは水、スールは“青”を意味している。うつくしい名前。
 そこに着いた。トニナが控えているのであまり時間はなかったが、滝のそばまで行き、写真を撮った。少し、いつもより濁りがあるらしいが、鍾乳石のような黄色いつるつるの大岩を“青い”水がいきおいよく滑っていて、明るい色合いの滝。飛沫があがってマイナスイオン!といわんばかりの清々しさ。
 大きな滝の脇に小さな滝があり、奥へ登っていく道があった。
 道沿いにはおみやげものやさんが並んでいる。その道を行き、小さい方の滝の流れをたどっていくと小さな建物があり、アクセサリーを売っていた。
 “水”の記念がまた欲しいような気がしてきた。初めに手にしたトルコ石のような色の涙型のネックレスは、いまひとつピンと来ず、もう一度テーブルの上をざっと探してローズクオーツのピラミッド型を手にした。ローズクオーツはわたしのお守りのような石でもう持っていたのだが、形に魅かれた。
 30メキシコドルということは約300円(!?)あらまー。

 そしていよいよ本日のメイン、トニナ!!に向けてまた山道を走り出した。
 車中でさっき買った石の話になると、Hさんが思い出したように言い出した。
「ウスマシンタ河でまんまるの白い石を拾ったんだけど、ウラに傷があったからもどしたのよね。そしたら次の瞬間なくなっていた。あれは不思議だった。」
「へー。」と聞きながら、Fさんがわたしが拾った石に横顔のようなものがあったことをちらっと言ったので、わたしはその石を取り出してもう一度Fさんに渡した。
 わたしのとなりにはHさんが座っていて、Fさんは斜め前に座っていたので、Hさんの目の前をその石は通過することになった。そしてFさんから帰ってくるその石は当然のようにHさんの手に渡った。
「あっ!これだ!この石!わたしが拾ったの!このキズ・・。」
「えーっ!!?」ビックリ仰天、大笑い!
 次の瞬間消えたワケだ。わたしが拾っちゃったから。確かに傷を見て返したのは分かった。同じこと思ったから。
 しかし、あんなにそれこそ星の数ほど河原には石なんてあるのに、よりによって同じ石を手にするとは!なんだか愉快だ。

 ツアー行程の途中から耳の調子が悪くなっていたIさんは、アグア・スールで手に入れた石を車中でずっと耳に当てていたら、耳が通って聞こえるようになった。
 わたしも石で具合のわるさが治ったことがある。
 わたしは胸でいろいろ受けてしまうたちで、受け過ぎたな、という時にローズクオーツを胸に当てたことがある。すると不思議に、かるく、ラクになったことがあった。
 吸い取ってくれるような、融かしてくれるような、引き受けてくれるような。
 そもそもはヒマラヤ水晶のペンダント・トップを初めて手に入れた時になんとなくからだのあちこちに当てていたら、胸のど真ん中にピタっとくる感じがして、その位置に合わせてチェーンの長さを注文し直したのが始まり。
 なぜ分かったかというと、背中まで抜けるような爽快感があったからだ。気功をしている時のような、いや、それ以上の口中のさわやかさも感じ、なんだこれはと思った。ミネラルっぽい味もした。その時から、アクセサリーをする位置というのには意味があり、昔の人はただ飾るためだけにしていたのではないのではないだろうかという風に感じるようになった。
 自分のスキのあるところ、出入り口というか、(チャクラだとかツボだとか言われているいるところ?)そこからよけいなものを入れないように。もしくは補ってサポートしてくれるように石を身につけたのではないだろうか?
 そして、その時の自分にとっていいもの(必要なもの)と、そうでないものとは、自分なりにだが感じる。簡単なはなし、よいものはあたたかく広がる感じで心地いい。もしくは清々しい清涼感がある。そうでないものはつまって重くなる。不快である。
 ・・・からだで感じる感覚にこころを澄ますのはおもしろい。
 けれどもとても静かで微妙なものなので、こころを騒がしくしたり、忙しくしているとおもしろいことにてきめんに感じなくなってくる。
 水みたいだ。撹拌されると底の砂が舞い上がりみえなくなるが、しばらく静かにしているとうわずみは澄んでくる。これは誰にでもある原始感覚で特別なものではないらしい。
                                《5》へつづく

 
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by ben-chicchan | 2005-10-05 16:24 | 紀行文

GIFT《3:柱》〜マヤ紀行2001〜

 思わぬ充実感に満たされながら、またワイルド・カーにて道をもどる。
 そしてワゴン車に乗り換えて今度はヤシュチランへ行く船着き場へ。
 船着き場(といってもただの河原)で乗る舟を待つ間、河のそばで思い思いに時間をつぶした。わたしは河の流れに手を浸し、きれいな石がないものかと足元を見下ろした。ハッとするまんまるい石がパッと目に入り、手にとった。
 ちょっとキズはあるが、ほぼ丸い形と少し透明感のある白色、ほどよい大きさが気に入ってウスマシンタ河の記念にした。
 舟は天竜川下りのようなシンプルなもので、簡単な屋根はついているが1時間の船旅というのから想像していたものとは違っていた。しかし、河をなにより身近に感じられて、“水”に縁があると言われている者としては文句ない、文句ない。
 モーターですっとばす舟はけっこうな河風を切って少し寒いくらい。ぼーっと両岸の景色を眺めながら、
(やっぱり水、好きだなあ・・・)と感じていた。
 河の向こう岸はグアテマラ。メキシコまで来たんだなあとしみじみ思う。
 小1時間そうして舟に揺られて、いよいよヤシュチランに着いた。

 舟を降りてジャングルの中をだいぶ歩くのだろうかと来る前はちょっと心配していたが、船着き場からはそう遠くもなく、観光客もけっこういて思いのほかポピュラーな印象。はじめの遺跡の真っ暗闇の空間をぐるっと廻ってその向こうへ出た。
 きれいに整備された緑の広場。ここでも印象的な大木がいくつも柱のようにこの空間を支えている。
 競技場を見、説明を聞き、その右奥の急な石段が続く高くなっているところまで来て、ガイドのYさんが「きつい人はここで待っていてください。」というので、わたしは残ることにした。
 だが、ずいぶんしばらくひとりで広場でぼおっとした後、ふいに(やっぱり上に行ってみよう!)とひらめいて、みんなが登っていった石段を登り始めた。
 途中、左側にガードマン付きの小さな遺跡があるのでのぞいた。
 ガイドなしなのでなんの遺跡か分からなかったが、やわらかい印象の美しいレリーフがあって見愡れた。色がいい。あたたかい。なんとも素敵だ。好きだな、ここ、と思った。あとで聞いたはなしでは、ここはヤシュチランで重要な地位を占めるある高貴な女性が自分の指を切って血を捧げたという生臭いところらしかったが、彼女はそれを“犠牲”ととらえていなかったらしい。
 マヤには血なまぐさい生け贄の話が多いが、生と死を今よりもっと大きくとらえて分けていなかったようであるマヤ世界からすると、“犠牲”の観念は全く違ったものとなるらしい。球技で勝ったチームの主将が喜んでいのちを捧げるのもそれをよく表している。
 先入観なくわたしが気に入った暖色系のレリーフのある小部屋は、あかるく居心地のいい空間に感じられた。

 そこからはたしかに急斜面で、少し登っては休み、また登っては座り、とたらりたらりと登った。先が見えないのでどこまであるのか分からなかったが、行けるところまでと思って最後の階段をえいやっと越えるとそこがゴールだった。
 さっきからずいぶん時間がたったと思ったが、案外そう距離のなかったそこで、まだみんなは遺跡の説明を聞いていた。そのそばに座り込んで息を整えた。
 ようやく落ち着いた頃、まるで「じゃ、」とでもいうばかりのタイミングでヤシュチランのメインディッシュであるその遺跡の中に入ることになった。
 ちょっと驚いた。あれだけ時間差があればみんなが帰ってくるところに遭遇すると思っていたのに、なんだかクライマックスには間に合ったみたいで。
 相当時間をかけて説明があったようだ。でも、どうやらわたしにはこれで充分だったのだ。
 あわてなくとも、欲張らなくとも、『充分である。』と、この遺跡の主、トリジャガー王にささやかれているようだった。

 中に入ってそのトリジャガー王の像のそばにいったが、しかし特にわたしの感応はなかった。だが、そこを出て、その外に立つ鍾乳石のようなもので出来た柱は、ちょっと、おっ!と思って、思わずガイドのKさんに聞いた。「これはなんですか?」
 “天界と地界を結ぶ”というような説明だった。
 それはたとえようもないほど素晴らしいもので、王の神殿よりもむしろわたしはその“仕掛け”になんだかとみに魅かれた。その時仰いだ空を、今も覚えている。

 階段を下りだしてなごりに振り返ったときに、はじめて足に鳥肌のようなものが立った。わたしの足に鳥肌が立つのはあるバロメーターで、なにかわたしなりの“ほんもの”とか“真実”に触れたときである。“自分”で気がついていなくともビビンと響いている証拠。猫のしっぽのようなもの(?)だ。
 ここの遺跡の偉大さ、トリジャガー王の偉大さにおそまきながらやはり身震いしたのかもしれない。
 舟は帰る。ボナンパックで手に入れた“水”のブレスレットをしてヤシュチランに通ずる水の上を滑って行く。祝福されているようだった。なにに?
 マヤに。すべてに。
                                
                                《4》へつづく
 
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by ben-chicchan | 2005-10-03 16:18 | 紀行文