ハバロフスクってとこはいうまでもなく寒いところだった。
南半球用のぼくの身体には少々こたえた。脳ずいを寒気が駆けのぼってきて、ぼくの中にしんと沈む。そのあとでみるみるうちに震えがくるのだった。
空港から郵便配達の袋にまぎれて街へ出たぼくを待っていたのは大陸的なだだっぴろい区画割りのあっさりした街だった。街にはつきものの繁華街というのが目につかない。やがて夜になれば灯りがともり、それとわかるのだろうが。
道ゆく人はここで生きるにはこうしてゆくのがいいという風に淡々とした顔をして急ぐでもなく、ゆっくりとでもなく行き交っている。誰もかれもコートをまとい、頭にはフォックスの毛皮を必ずといっていいほどかぶっていた。
なのにぼくの後ろ足の肉球はじかのまま冷たい大地に降ろされている。だが、身体というのは不思議なもので、少々の修正はきくらしく、ぼくがこの身体を選んだのはあながち悪い選択でもなかったようだ。
オーストラリアの中でも割と厳しい環境の中で育つ“ぼく”に、寒いとはいえここはやさしかった。
それにここの建物のぶ厚い石造りの壁は、ぼくに120光年前に立ち寄った琴座の衛星を思い起こさせた。
飛行機から降りて何時間かの間に、ぼくはもうここに“とりあえず”以上の愛着を覚え始めていた。
ある1軒の建物の入り口からぼくは三番目の引きずる足をはさまぬように滑り込んだ。頭から粉砂糖菓子のようになって、やがてそれが溶けて冷たくなってくるのを感じながら、ぼくは木造りの床を、階段を横目に静かに奥へと入っていった。
なぜなら一番奥のドアが開いていて、かすかな声がしたからだ。
ぼくの足1本分ぐらいに開いたドアの隙間からうかがうと、そこは窓がひとつしかない小さめの部屋でベッドがひとつとその横にホーローの洗面器とが置いてあり、そこにタオルがかけてあった。
窓辺にはこの寒空の下どこから手に入れたのか、白い可憐な花が茎はたくましくひとつ咲いている。
「ぞうの足は丸太んぼう♪かばの口は肘掛け椅子♪キリンの首は火の見やぐら・・♪」
小さな声は少し節をつけて歌っていたようだ。
が、ドアの影の気配に気づいてこう呼び掛けた。
「フランチェスカ。ぼくもうずっとおりこうにしてたからはやく動物園に連れてって。」
ぼくは自分に語りかけられたような気がしたのでどうしたものかと迷ったが、その時、外の扉が開いて大声と物がぶつかる大きな音がしたのに押されるように、その部屋へと入り込んでしまった。
ぼくの目にはじめてその声の主の顔が映った。やわらかいさざめくような金髪で、瞳はアルファケンタウリの鉱石のような透き通った青緑色だった。
彼は相変わらず言った。
「ぼくね、もうこの歌100万べんも歌ったよ。あとどのくらい歌ってればぞうのひげにさわれるの?」
その時、ぼくはようやっとその透き通った瞳に光がないのに気がついた。
ぼくが前に立ってもその瞳に動きはない。
ぼくは何と答えようかとその顔のあたりにまでかがんで鼻先を近づけた。そしてこの身体の習性のなごりでついにおいをかぐように鼻をひくひくさせてしまった。
するとぼくのひげが彼のほおに触れて彼ははじめてビクリと体をふるわせた。
「だれ?」
はじめ彼のように声を出すためにこの身体で踏む手順はやっかいだったが、やっとしぼり出すように彼をまねて言った。
「だれ?」
動かなかった瞳は不思議そうにくるんとした。
少し好奇心に上気した彼は右手をぼくの方に伸ばしてきた。ぼくはあえて動かなかった。ぼくの顔をなぜるのも。耳を引っ張るのもなすがままに。
「カンガルーだ!」
彼は叫んだ。
「カンガルーがぼくに会いに来た!」
それからぼくらの話は早かった。
彼はぼくよりもぼくを知っていて、ぼくはただ、「フーン。」とか「へ〜え。」とかあいづちを打つばかりだった。
「でもぼく知らなかった。カンガルーがしゃべるなんて。」
ぼくも知らなかった。ぼくがカンガルーだなんて。
そうしてぼくは彼、サーシャの友達になった。
To be continued …