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空を歩く

GIFT《6:転》〜マヤ紀行2001〜

 オコシンゴでマリオを降ろし、パレンケまでの帰路についた。
 行きしに車窓から見た市場は、すっかりきれいになにもなくなっていた。魅力的な村だった。いつかここに泊まりがけでくることは・・と一瞬夢想した。ないよな・・。
(と、思っていたのだが・・。)

 あとはまたあの山道を帰るだけ。昼は軽めだったし、食べていない人もいるし、みんな疲れて眠ったり、ただ揺られていこうという態勢だった。わたしもぼーっとしていたように思う。途中寝ていたかもしれない。よく覚えていない。
 とにかくずいぶん経ってからだった。
 
 突然の絶叫に目を見開かされた。
 ガガン!という振動とともに目の前の景色が回転し始めた。不思議な光景だった。車内は電気がついているように明るかった。
 とにかく回転するのだ。
(あーっやったか!これが事故ってやつか!わたしたちが!?)
 と思いながら、同時に
(とにかく力を抜いて転がりなさい・・。)
 というインスピレーションを感じた。
 他にすることもないので無意識に1回、2回、3回と数えて
(まだかいな〜、もうそろそろかんべんして・・。)と思った頃、ぐしゃっという感じに衝撃とともに車はつぶれてようやっと止まった。
 その衝撃で顔面を打ってメガネが鼻に当たってまっぷたつになり飛んでいった。
 運転手はまた叫んでいた。神様とかなんとか言っているようだった。
(運転手、はさまったのかな・・?いや、動き回っているみたいだ。こりゃ、誰かたいへんかもしれない・・。)
 けれども運転手の元気(?)な声に、助けてくれるかな?とちょっと期待を持った。
 が、彼の精神的ショックは想像を超えるものだったらしく、叫び回り、それが肉体的にもこたえたようでダメージは大きく、他の人間を救助するどころではなかったようだ。
 わたし自身もどこをどうしたのか、はさまっていないか、動けるのか、と我に返るとすこしひやっとした。その時が一番おそろしいといえばおそろしかったかもしれない。
 そう〜っと動いてみるとどうやら動けて、車のすきまから外へずり落ちるようにこぼれ落ちるように出ることが出来た。出たところでうずくまって動かないようにした。
 それこそ打ちどころが悪ければ動くことで助かるものが助からぬということもあるかもしれない。とにかく自分をなんとか支えなくては。それが病気持ちの人間に出来る最大の仕事だ、とまず思った。
 痛いところはどこなんだろうと思ったが、ショックのあまりよく分からず、でも顔に血がついていることには気づき、気分がわるくなりかけた。
 精神的なものが大きいことに自分でも気づいた。しかし、精神は肉体と直結しているので莫迦にできない。
 3年前の死の恐怖に飲み込まれないよう、あわててさっき回転していたときのゆだねるような気持ちにほんのすこし持っていった。するとすぐに内側のあたたかい生きている感触のようなものがもどってきて、外側もなにか空気の層のようなあたたかいものに包まれる感じになった。言葉にするなら“だいじょうぶ。だいじょうぶ。”となにか自分以外のものに支えられているような感覚だった。
 ひとことで言えば“安心感”のようなものにくるまれる感じ。自分だけではない感じ。その“安心感”とともに、冬眠の熊のように消耗を減らすことに集中しようと思った。

 リュックには大事なものばかり(それも人から預かってきたものとか)あったが、この際あきらめた。この身ひとつ持って帰れればきっと許してもらえるだろう。大事なものとはこれも縁だったのだ・・。と気持ちの負担をひとつ減らした。
 けれどもそれらはガイドのKさんの超人的・献身的努力によって手元にもどってきた。Kさんはとっさに事故を防ごうとハンドルもつかんだらしい。事故直後、エンジン音がしていて(危ない・・。)と思ったが動けなかった。エンジンはKさんが切ってくれた。冷静かつ的確な処置だった。
 あの症状で事故のブレーキ痕まで確認したとあとで知って舌を巻いた。

 Fさんが急斜面を登って助けを呼んでくれた。
 おかげで思ったより早く通りすがりの人々がたくさん下りてきて、力強い大声で叫びながらわたしたちをひとりづつ救い出してくれた。
 Iさんを抱き上げて斜面を登っていった人は、ひときわ目立って陣頭指揮をしていた人で、少しおなかの出た中年のメキシカンだったが、彼の胆の座った自信に満ちた懸命な行動は見ていたわたしを大きく力づけた。
「アユーダメ!アユーダメ!」と叫んでいるように聞こえた。
 たしかそれは「おれが助けてやる!」とかそういう意味じゃなかったか・・とこんなときにすっかり忘れていたスペイン語の意味を“感じて”わたしは強いインパクトを受けた。
 わたしの番がきて、はじめはふたりがかりで運んでくれようとしたが、斜面が急で運びにくく、そのうちのひとりがひとりで引き受けてがんばって運んでくれた。若そうなその人はあまり大柄ではなかったのだが、それこそ火事場の馬鹿力でブルブルふるえながらも落とさずに上まで上げてくれた。
「グラシアス・・。」といしか言えないことがもどかしいほどだった。そのひと言に万感をこめた。
 道路にあげられて、彼が横にしようとしてくれてはじめて「う・・腰だ・・。」と気がついた。横になることは出来なかった。ひざを抱えてそのままの姿勢でいるしかなかった。
 
 それにしても血小板が通常より少ないという持病を持つわたしには、特によりによって一番起きてほしくないパターンのこと(病院が近くにない場所で事故にあい、負傷したということ)が起きた。まさか、ほんとに起きるとは・・という弱気な想いがちらっと浮かんだ。おっと、今を乗り切ることだけに集中していればなんとかなる、からだのためにも意気消沈しないことだと打ち消して顔を上げた。
 そこにはなんの花だかわからないが白い花がかたまりになって群れてたくさん咲いていて、わたしたちを見下ろしていた。遠いメキシコだったが空は空だった。
 トニナの階段を登ったように、先も後も見ないで信じてこの一瞬一瞬を一段づつ登って行こうと思った。

 ほんとうに有り難いことにたくさんの人々がわたしたちを助けてくれた。
 わたしのそばにいた金髪の女性になにかできることはないかと英語できかれて、荷物が手元になかったわたしは「水が飲みたい。」というと、背負っていたリュックから水を出して飲ませてくれようとした。
 すると中年の女性がそれを止めた。その人はあとできいたがちょうど通りかかった女医さんらしく、どうも医学的見地から水を飲むのを止めたらしかった。
 なにくれとなく気遣ってくれて、ショックを受けているわたしたちの気分をやわらげるなにかを、手につけてそのにおいをかがせてくれた。
 おなかの出た中年のメキシカンも、そのあともずいぶん遅くまで残っていろいろ気遣ってくれた。ほんとにこの人の存在は心強かった。
 もちろん野次馬もいたらしい。火事場のどろぼうもいたかもしれない。
 けれども大多数がなんの義理もないのにただ通りすがっただけの縁で汗をかき、こころで寄り添い、わたしたちを支えてくれたのだ。事故直後には我も我もと崖下まで下りてきてくれた。
 そして、見ず知らずのひとを人間であるだけで深く信頼を寄せる自分もそこにいた。

“VIVA ! MEXICO ! VIVA ! HUMANA ALMA(人間的なたましい)!!”

 事故は夕方に起きたので、日はとっぷりと暮れていった。
 一番近いオコシンゴ村から遠く離れたこの現場までは救急車を呼びに行くだけで1時間はかかるということだった。
 初めに運んでもらった地面は端の方で、日が暮れるとみんなと離れていると自分を支えにくいことに気づき、思い切って動いてみた。
「いててて・・。」なんとか3mくらい中腰で動き、Mさんのそばに座った。右の下方に落ちている車が目に入ってちょっと抵抗を感じたが、それ以上動く気にもなれなかったのでMさんとくっついて暖をとった。冷え込んできた。
 冷えは精神までも冷やしそうになってきて少々わたしはあせった。幸いどこからか毛布をもってきてくれた人がいて、わたしは立ち直った。
 リュックからカロリーメイトのようなものを出してとなりのMさんに出したが食欲がないようだった。無理もない。わたしはカロリーメイトをそばにいたFさんに渡した。自分もかじった。
 Fさんは「自分だけ軽傷で・・。」と落ち込んでいた。
 それは違うととっさに感じて言った。
「Fさんが無事でうれしいよ。きっとなにか役割があるんだよ・・。」
 なぐさめではなく本気でそう思っていた。全てのことが偶然ではないと思っている。それはひとことでは書き切れないが自分の今までの経験からそう思う。
 だからだれもかわいそうなひとはおらず、だれも自分をひけめに思う必要もないという強い想いを抱いている。自分に起きたことは全て意味がある。ほかと比べようもない祝福と重みをもって。
 
 景気づけにMさんに言った。
「童謡でもうたおっかー・・。」
 なぜかこの曲しか思いつかず、わたしは「なのは〜なばたけえに〜・・」と地味に歌い出した。Mさんは明るく、「暗い。」とつっこんだ。(たしかに。可笑しい)
 Mさんが歌い出した“上を向いて歩こう”に声を合わせた。ひととおり歌い終わって別の曲も歌いたいと思ったが、これまたなぜか“われは海の子”しか思いつかず、
(こんな山の中には似合わないな〜・・。)と貧しいレパートリーは終わった。
(今度(?)はちゃんと元気の出る歌を仕入れておこう。)と気持ちを新たにした。

 どのくらい経ったのか、やっとなんだか騒がしい動きが出てきて、煌々とライトをつけたパトカーみたいな車が何台も到着した。こんなにこの灯りがたのもしく見えたことはない。
「お嬢様、お迎えです。」といわんばかりの高級そうなシートに身を埋めた。
 午後に降った雨で地面が濡れていて、座りつづけたおしりは冷え切っていた。今はとにかく清潔なあたたかいベッドにたどりつきたかった。
 長い長い距離を走りつづけ、やっと人家のあるところまでもどり、村に入った。ようやく車が四角い建物の前に止まり、どうやらこうやら病院に着いた。
 ひとの手を借りて、ゆっくり玄関から中へと歩いて入っていった。玄関のところで写真を撮られた。地元の記者のようだ。
 この時、歩いて病院に入ってここの医者に言われた人がいる。
「どうしてあなたたちは歩いて病院に入ってこれたんだ。」
 あとで聞いた話ではわたしたちの車が転落したカーブは事故の名所で、そこに落ちた車から歩いて病院に入れた者はほとんどいないそうだ。わたしたちもあと、ほんの少しずれていたら岩盤に激突して万事休すだったということだった。

 わたしはとりあえず入ってわりとすぐのところの小さな丸いイスに座らされた。
 その真ん前には手術台のような台があって、横たわる人の足がで〜んとあり、点滴を受けていて
(お〜い、こんなとこで手術するんですか〜!?精神衛生上よくないな〜・・。)
と思ったがつばを飲み込んで気を取り直した。せめてこのイスから早く移動したいと祈っていた。
 やっと案内されて、ストレッチャーの上に寝かされた。レントゲン服のようなのを渡されて、服を全部脱がされた。人が入れ代わり立ち代わりやってきて、名前を聞かれる。点滴を持って来た医師に「なんたらかんたらアレルギー?」と聞かれた。クスリのアレルギーを聞かれたようだった。
(う〜ん、血小板には強い鎮痛剤はよくないというけど、血小板てなんていうんだー?)
 スペイン語はもちろん、英語でもわからない。知恵をしぼり、ジェスチャー、図解、考えられる限りの方法で伝えようとしたが、医療スタッフが集まってくるばかりで、皆いわんとしていることは通じないようだった。
 なんのための点滴かきくと、「痛みのため」という。お互いに困って笑っちゃったりしながら、そうだ、血小板という単語だけでもガイドさんにきければ、と思い、
「ミスターK?」というと、合点顔でドクターはどこかへ行った。
 連れて来てくれたのはFさんだった。
「英語で血小板てなんていうのかな〜?」と英語のできるFさんにきいたが、そんな専門用語フツウの人に分かるはずもなく、Fさんは状況の外堀から攻めて一生懸命通訳してくれた。感謝、感謝。
 結局医療スタッフには手術はしないよね?(手術はできるがわかってやってもらわないと・・)ということは伝わり、わたしにも大丈夫だ、と伝えられちょっとホッとしたが、点滴はされることになった。
 血小板さんのためなら痛みはがまんできると思ったのだがそれ以上説明できなかった。なので奥の手で「この点滴をすると気分がわるくなるから止めてちょうだい。」と片言英語でいうと、インド人のようなドクターはやっといたわるような顔をして止めてくれた。このドクターは以心伝心こちらの意図をすっと汲んでくれて安心感を与えてくれ、“名医”だ、と思った。
 けれどもこの点滴は別の医師によって再開され、それからしばらく看護婦さんとも攻防があったが、ついにわたしも観念して、死ぬこたないだろ、どうせやるなら“歓迎!鎮痛剤様!!”と気持ち良くやった方がからだにいいかも・・と自分をナットクさせた。
 さぞやみなさん困ったろうなあ・・。オコシンゴ病院のブラックリストにのったことと思う。日本人初!?『血小板』という単語くらい調べていけばよかったと思う。
 チラッとは思ったのだかが、エンギでもないと調べなかった。2月には5万あったのでちょっと安心したのもあった。
 しかし、この鎮痛剤で減ったろうなと思っていた血小板の数値は、どういうわけか帰国後の検査で14万!!に一時的にどっか〜んとはねあがり、日本のドクターに驚かれた。
 検査でひっかからないのは20万以上だが、14万なんてほとんど正常値みたいなもので、10万台が10年続けば完治ということになる。今後のためにも
「いったいなにがよかったんですかね〜?」ときいても、
「鎮痛剤は血小板には禁忌だし、う〜ん、メキシコの点滴がよかったのかね〜?」
 先生もあきれはてて冗談しか言えなかった。

 しかし、わたしはこの検査結果をきいた時、とりはだが立った。と、同時にどこか合点がいっていた。
 シュタイナーという人が書いた本に、血液の病気というのは、アイデンティティーにかかわっているとしたためてあり、どこかなるほどと思えてとても印象に残っていたのだが、そのことに関連した現象のように思えた。
 なんでまたこんなに頑張ってまでマヤに来たかったのか、というひとつのしるしのように思えた。
 アイデンティティーにかかわっているとすると、今回でパッとハイめでたしではなくやはり一生ものなのだが、(信号としてセンサーとしてわたしが必要とする限りは)わたしはこの旅で大きなヒントを得たような気がしている。
 自分の中のかすかなしずかなささやきに忠実に行動すること。
 そして、陰も陽も必ず意味があってぐるぐる現れるので、その両方を貫いて存在する自分のありかを見失わないこと。もちろんむつかしいけれど、なにかがはやぶさのようにひゅんとそばをかすめたような気がしている。
 瞬間、インスピレーションのようにキラッと差し込んだ光のようなもの。
 その一瞬を体験するための大きな旅だったようなそんな感じ。
 それがわたしのアイデンティティーに深くかかわっているようなのだ。
 これをどのように生かしていくかはゆだねるよりない。そのときそのときにきっとわかる。・・かな・・たぶんね。

 病院はごったがえしていてなかなか次の動きはなかった。他のツアーメンバーのうち、3人は他の病院へ搬送されたらしかった。中のひとり、ストレッチャーに乗せられたTさんに、車椅子に乗ったKさんが通訳するのをわたしは耳にした。
「打ちどころがわるいので、ここでは十分な検査ができないので別の病院に搬送します。」
 その後、病院に落ち着いたのは朝だったとあとで聞いて、その間を耐え抜いたTさんたちの忍耐に言葉もない。

 ずっと廊下のここに置いとかれるんかしらんとストレッチャーの上でぽっかり思いつつ、そういえば晩ごはん食べていないなあ・・とぼんやり思っていた。
 病院もだんだん静かになってきた頃、やっとストレッチャーは動き出した。ベッドがふたつある部屋に運び込まれ、ストレッチャーから移された。もうひとつはまだ空いていた。立ち去ろうとする白衣の男性が、ふと、床に落ちていたものを拾い上げた。
「あんたのクリスタルかい?」
「えっ?」っと耳を疑ったが、その人は小さな黒いガラス片をわたしに渡した。
 なんだってこの人は今、クリスタルだなんてこんなものをわたしに渡すのだ?
 わたしはむしょうにうれしくなって、
「あ〜、グラシア〜ス!!」と受け取った。色は黒いし、ガラスみたいだけど、これはわたしを励ましに来たクリスタルである、と断じてうれしがった。思ったもん勝ちである。寝なさいよ、というジェスチャーにうんうんとうなずいた。
 少し経ってもうひとり運ばれてきた。メガネがないのでよくわからなかったが、じーっと観察して見当をつけるときいた。
「もしかしてSさん?」
「うん。」
 ほっとした。仲間だ。よかった、同室だった。
 それから看護婦さんが何回も回診に来たりして眠れぬ夜を、Sさんとしゃべったりして過ごした。
 気がつくと外は雨で、どこまでもついていた、と思った。雨の中何時間も外にいたら別の具合のわるさにつながったろう。幸運としかいいようがない。
 この夜をトニナのそばで迎えるとは・・雨音をききながら感慨にふけった。
 が、どこからかにぎやかな音楽が聞こえてくるここは病院?
 お国柄というのは面白いものだ。
                                《7》へつづく

 
 
by ben-chicchan | 2005-10-08 15:15 | 紀行文
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